武士道とは
Jリーグが再開する。
サッカーファンとしては嬉しい限りであり、
ことさら地元である佐賀県にある、メガクラブ(笑)のサガン鳥栖熱が加速しそうだ。
大きい舞台や社会、都会に出るとよく佐賀県イジりをされるものだ。
これは佐賀県に限らず田舎出身の方ならあるあるである。
「えーそんなとこになにがあるのー?」とか「場所わからーん笑」というシティーマウントに屈し、返しも説明からも逃げ、「ははは、地元?福岡福岡」と近場の大都市を挙げていた20代にさよなら。
30代、より一層、アイデンティティやルーツ、育んだ自然や水に感謝する時分である。
個人的には「なにもない」からこそ、なにかを生みたくなるのである。
いつかは多くの人に認知され、自分の意見を承認されたい、能力を発揮したい、自分の存在を知らしめたい。
なんてことを若い時に考えたものである。
間違ってはいないが、なんとも若い。出すのがヘタ。
佐賀県は、江戸時代頃、
通称 葉隠れの里とも呼ばれていた。
そうあの「葉隠れの術」の葉隠れ。にんじゃりばんばん木の葉の里である。
少年ジャンプを愛する少年(中年)たちは知っているNARUTOの岸本斉史先生の地元も近い。
以前住んでいた家の近く(福岡県ではあるが)には「一楽」というラーメン屋もあったくらいだ(ガチのモデルです)
こうなると僕にも螺旋丸が使えるのでは?と思えるくらいだが、残念だがチャクラ不足もいいとこ。
そんな下忍の実家の近くにある金立公園にはこんな石碑がある。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
過激な言葉だが、この言葉、切腹したがりとか死ねばいいとか投げやりな言葉じゃないのがミソ。
生か死の選択をしなければならない時は死を選ばなければならない。
それ自体に意味はない。
当てが外れたら犬死にだと言うのは都会的な武士の思想である。
もし当てが外れて、生き永らえてしまえばそれは恥になる。
当てが外れて死んだら、犬死にかもしれないし、気違いのようだが、それは恥にはならない。
つまり。
毎朝毎夕死ぬことを決心して常に死んだ身になれば、武士道と自分は一体となり一生落ち度がなく、職務をまっとうすることができる。
という意味だ。
「死」があるゆえに「どう生きるか」を捉えるSAGAにしては案外含蓄のある言葉である。
だから思う。
派手に転んで、恥も外聞も承知の上で
それでも死ぬまでトライアンドエラー。
地域性や血は
意識せずとも確実にみなさんの中に息づくものと思います。
地元の言葉を掘り下げてみると、自分の縦の糸は繋がって、どんな人間か自己分析も捗ります。
だから毎日精一杯、今日も生きていきますね。