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うさぎのカタルシス

葬儀屋さん

オヤジは知らないジジイの夢を見るか

なんという暑さだろうか。

重たくのしかかった曇天のもと、とてつもない湿気が僕のパンツ及び股間を集中豪雨してくる。


小学生の時に日本は温暖湿潤気候と教わったはずだが、あれはもう今の小学生たちには、亜熱帯と教えるほうが乖離が少なく済むだろう。

 

九州で降る大雨に重ねてそこにいる僕の家族のことを思い出す。


7歳ほどだったか、僕の両親は果てなき戦争の末、離婚した。夜は隠れてよく泣いた。

法廷には行ってない。あくまで協議離婚。


理由はどちらに落ち度があるわけではなく、母親から父親への三行半。

25歳くらいの時に聞いたのか離婚の理由は

「このまま一緒にいても自分は成長しないから」

まさにグラディエーターのような母である。つっよー。

 

1997年


母に彼氏ができた。

当時僕は小学校高学年。

あたたかい母子家庭と何処までも続く田園風景と蛙の匂いの中、そこに群生した葦のように伸び伸びと育っていた。


500坪ほどの広大な土地と、祖父の代から続く古びた一軒家。死んだ祖父が残した財産だ。そんな場所に幼い子どもひとりが夜遅くまでひとりきり。

今考えたら狂気の沙汰である。


ある日曜日、母親は彼氏をそこへ連れてきた。


母親は当時彼氏(今の僕の義父)と毎週末のように逢瀬を重ねていた。

「母ちゃんには母ちゃんの第2の人生があるわよ」と叔母からは言われたが、神童と持て囃されるほど賢かったとはいえ、いち小学生にそんな大人の事情や都合などうまく咀嚼できるわけがない。


知らない男の人が家にいる。

それだけでなんとな〜く家に居づらかった僕は愛チャリであるブラックエンペラー号に跨り、9割が田園で構成された田舎町を、行くあてもなくサイクリングしていた。

茶店からはGLAYのHOWEVERが親の仇のように流れていて、まるで世界から自分だけ切り離されたような感覚に陥った。

愛などクソ喰らえ。

パンクキッズ爆誕の瞬間である。


かくいう義父はとても優しくて、面白い人だった。母とは職場恋愛だった。

職場での異名は「変人」

こだわりは強いが、穏やかな自己中。

笑顔は柔和で、論理的に話ができる大人だった。


なにより義父は僕に必要以上に気に入られよう、取り入ろうとすることはなく、我が道を行くタイプだった。

その距離感が絶妙で、僕は刺激されることもなく、過干渉されることもない。

だが当時のおマセさんなガキには得体の知れぬ不可解なものに映っていたのかもしれない。


中学に入る時には、駅前の新築マンションに移り住んだ。3人の新しい生活が始まったのである。


結婚は僕が14になる頃、母親はひっそりと籍を入れた。

3つの姓を提示されたのを今でも覚えている。

生まれの父親の姓か

母親の旧姓か

新しいパッパの姓を名乗るか

の3択である。


多感な年頃である。まして思春期だった。

苗字が変わればいじめられるかもしれない。

僕が好きだった女の子はそれをどう思うだろう。

ホームルームの時間で大きな声で呼ばれるのかな。出席番号だって変わるかもしれない。


うだつの上がらないことなかれ主義。

ことなかれな生まれの父の姓を僕は今だに名乗っている。

まあノリだった。恥ずかしかったし。

今思うと、その選択を与えた母もまた強しだ。


そんな時期から高校生にかけて、僕は「神童」を辞め始める。

堕落したし、落ちぶれたのだ。

おマセさんぶって、大人の顔色を伺うのに疲れてしまった。

限りなく良く言えば”ポイント”稼ぎを辞めたのである。


ヤンキー武勇伝など全くない陰キャだが、喧嘩騒動や停学処分。家出の数は5回以降数えていない。

学校もほとんどサボっていた。


学校にはいたくない。先生とかいうツラだけ被った五月蝿い大人たちがいるから。

家にもいたくない。居場所なんてないから。

誰かや世界に罪ばかりを擦り付けた。


天涯孤独ぶって、学校をサボり、筑後川が流れる川縁で水切りをした。

イヤホンから流れるレッド・ホット・チリ・ペッパーズだけが僕の味方だった。

まさに、ハンコーキ。

マンチェスターユナイテッド時のC・ロナウドほどキレッキレの10代である。


そういや最近家に帰っても、ババアを見ないな。

うるせー奴がいなくてせいせいするわ。エロサイトでも見っか。


「ガチャガチャ...バタン!」

家のドアを開ける音がした。

きっとオヤジだ。


ちっ、もうジジイが帰宅かよ。今日ははえーな。


「〇〇、おまえまた停学になったらしいな」

 


(珍しく喋りかけてきやがって...)

「え?だからなに?」

 

 

 

 

「パンッッッ!!」

 

 

 

 

マーチング部の朝練で聞いたことのある、太鼓のような乾いた音がした。

 


義父に初めて殴られたのはそれが最初で最後だった。


音と反比例して、痛みはじんじんと僕の頬を脈打った。

 

 

「言うか迷ってたが言う。お母さんは妊娠している。入院もした。年齢も年齢だ。お母さんに心配をかけるな」

 

 


「.....!!?」

 

 


産まれてくる我が子が可愛いからだけじゃない。

純粋に母親を愛してるからだけでもない。

こんな状況のバラバラ寸前の「家族」を救おうとする「親父」の顔がそこにあった。

というか伝わりすぎるくらい痛かった。

厳密には痛かったのは顔面だけではなかったからだ。


その晩、オヤジと食ったレトルトの牛丼はどんな味がしただろう。

未だに思い出せないままでいる。


何ヶ月後かにベイビーが誕生した。

世にも珍しい高齢出産での双子の自然分娩である。

母の出産シーンには多くの産婦人科医が見学に訪れたらしい。


一気に2人の「お兄ちゃん」となった僕はというと、、、


手遅れかもしれないが、高校生を謳歌せんが為に奔走した。

それなりに勉強し、それなりに補習をして。

それなりに部活を頑張り、それなりにバンドに青春を捧げた。


張り切りすぎて、部活中に鎖骨を折った。

半グレしてたとはいえ、青春真っ只中の名誉の負傷である。

だから実は母が出産する頃、僕は同じ病院でベッドに横たわっていた。全治3ヶ月。

オヤジは見舞いがラクだと言っていたが、いつも母親の病室からの僕で、僕の方から先に見舞いをされたことがない。

今度帰省した際は詰問から始めたいと思う。


病室のテレビから流れるミスターチルドレンの「HERO」が家族愛を謳っていてこそばゆく、鬱陶しかった。


生まれた我がシスターズについてはこれまた長くなる故、機会があれば書きたいと思う。

彼女らとの思い出もこれまた濃密だ。

 

 

3年程前に帰省した際、母親から面白い話を聞き、僕は現地へ駆けつけた。


「パパね、最近秘密基地があるとよ。私と喧嘩したらすぐ出て行ってそこにおっとよ。バカんごとしとっとさ」


入るとまさに秘密基地。

ブレーカーを上げた瞬間に音楽がかかった。

T-BOLANZARD、くじら19号や空も飛べるはず。とんでもなく80s。


陳列棚にはどこに隠してたのか分からない古めかしいラジコンや玩具の数々。

怪しい自己啓発本や変な科学雑誌


しかし性格故か以前訪れた時よりも、綺麗に隅々まで整頓され、水道は井戸からひけるようにし、いつ蛇が出てくるか分からない鬱蒼と茂った竹林や雑草はスッキリと刈られていた。

 


そう、僕はここに来たことがある。

 


というよりそこは、僕が生まれ育った家だった。

 


知らない家にズケズケと入った男は、その乱雑な広い土地や、長らく空き家で埃やイタチの糞まみれだったその家を、1人で綺麗にしていた。

すぐにでも家族が住めそうなくらいのものにまで。


「おれ、お前の先祖に呪われてるかもしれんわ」


仕事から帰り、芋焼酎を飲みながら

顔が紅潮し始めたオヤジは言った。


「秘密基地なんやろ?打ちっぱなしゴルフのネットまでつけとーやん」


「おまえ、大変やったとぞ?砂利とかも敷くの。業者に頼んだら300万やて、自分でやるわってなってな」


「そうか笑」

 

 

あの家は僕の名義になっている。

 

 

なにかを悟った。

 


「綺麗にしとくから、あとはよろしくね」と言われた気がしたのだ。

 


その声は死んだじいちゃんの声なのか、眼前で酔っ払ってる中年の声なのか僕には分からなかった。


オンボロで、市に公民館として寄付しようにも断られたほど便も悪い。

外に立てば田舎育ちの屈強な蚊に、ガトリング砲のように狙われること請け合いだ。


およそ10年振りにあの家を見た時、

僕はどんな顔をしていたのだろう。

 

あの家でちゃんと死ぬのが、僕の夢である。


もうひとつ約束できるのは、オヤジが死んだら、あのラジコンやプラモデルを寂しくないようにそっと棺に入れてやろう。


そしてあの物持ちの良いオヤジのことだ。

ひとつなぎのアダルトビデオは僕がポーネグリフにして歴史の闇に葬り去ってやる。

 

約束するよ。

 

それが受け継がれるイシってやつだろ?