風車の廻し方
コロナ以前、アフターコロナ、そんな言葉が闊歩する数年前のある夏に僕は限界を超えた。
2015年、誰がこの後未曾有のウィルスにより、リーマン以来、世界恐慌クラスの経済が待っていると思ったか。
飲食マンの僕らの会社はノリにノっていた。
売上及び利益率の右肩上がりのグラフを見つめ毎日のようにニヤニヤしていたのを覚えている。
深夜帯ともなれば、店舗間で店長たちによる私用電話ともとれる「ウチはこれだけ売ったぞ!」「人件費はここまで絞れた」「明日は負けねーぞ!」といった連絡が日々行われていており、まさに組織としてひとつの完成形。良い循環のシステムが図らずとも構築されていた。
今考えると、PDCAサイクルのクソもない。
調子に乗るだけ乗った時代の波を僕らは浮かれて泳いでいたのである。
そんな中決まった社員旅行は沖縄だった。
それ以前の社員旅行といえば毎度毎度本社近くの観光地やリゾート地へ。
海岸へ行き、バーベキューをしながら、前日の深夜4時まで働いたゾンビ面の者共が眠りもせず真夏の太陽の下で今にも成仏させられんかの如く欠伸を放つ。
ともすればまさに地獄絵図のような光景だったのだが、その年は収益も良く、本場の海岸。楽園である沖縄への2泊3日が決まったのだ。
沖縄といえば、日本とはいえ、ほぼ異文化だ。
文化にしても食材にしても僕らが住む「本土」と呼ばれる地域のそれとは一線を画す。
日本国内とは思えぬ美しいビーチに壮観な米軍基地の戦闘機の数々。
風に揺れるサトウキビ畑やジューシーな南国産の果物。
角煮とはいわないラフテーに薬味の効いたソーキそば。
聞いた話では地元の女性の7割は水商売で働く(らしい)
キャバクラやガールズバー、スナックにそれ以上のむふふ。だって当然。。。
若手社員たちのテンションは出発口である神戸空港の時点で高まる夜への期待を隠しきれていなかった。
彼らは「くさったしたい」から「わらいぶくろ」へ華麗なるジョブチェンジを果たしていたのだ。
去年まで蔓延っていたゾンビたちはどうやら掃討されたのか、ダーマ神殿がまさか神戸の地にあったことに僕はほっと胸を撫で下ろした。
僕には2人の上司、マイボスがいる。
1人は優しくて独創性に富んだお兄ちゃん。社長。実はサイコパス。
もう1人は矢面に立ち、闘い方を教えてくれた兄貴。統括。BLINK182のようなタトゥーが印象的。
このぶっ飛んだ2人に僕は原子レベルまで影響を受けている。
人との会話から社会の処世術まで同じように20代を共にし、辛酸も栄光の味も舐め合った2人とも兄のような存在だ。
そんな2人と同僚たち、可愛い後半社員たちとまさか飛行機に乗って旅行に行くなんて、まさに夢のような出来事になる。はずだった。
「全員墓場まで持っていこう」
そう仰ったのはマイボス、偉大なる社長であった。
若手社員たちは歓喜していた。
沖縄旅行最後の夜のことだった。
僕は変わらずに、沖縄を謳歌していた。
そうみんなで最後に行こうとなったのは「おっ〇いパブ」だったのである。
僕にとっては初めてのおっパブデビュー。
ライブハウスのように薄暗い階段を降りてく最中、後ろから聞こえるおっ〇いコール。
仕事中では見せることのない後輩社員たちの笑顔と元気。彼らのことをこれからは敬意を込めて「さん」付けしようと固く心に誓った。
おっパブではまるで回転寿司のように胸もとを露にした女性がかわるがわる僕の膝の上に乗ってきた。歌いながらやって来るなり胸部を押し付ける場馴れした女性から、暗がりの照明の中でさえはやく帰りたがってるのが伝わる女性まで、様々なオッパーが目まぐるしいスピードでそのEDMのテンポのように僕の眼前を駆け巡った。
そんな中、場内のステージにスポットが当たった。さきほどの場馴れした女性。おそらく店長かなにかかな。注目はそこへ集まった。
「ただいまより、ショーをはじめます~!」
ショー??
一体なにが始まるんだと思いきや信じられないひとことを口走った。
「いまからぁ、この〇〇と〇〇を結んで、ひとつは女の子の〇〇もうひとつはお客様の〇〇につっこんで綱引きをしますー!!」
明朗な声で彼女は言った。
つまり性玩具を結びつけ合い、長いロープにして、ひとつは女性器に、もうひとつを男性の肛門にインして綱引きをするというアタマの悪く最高に面白いショーの内容だった。
だが僕はというと暗い店内のカウチソファの隅で座敷わらしと化し、戦々恐々としていた。
なぜかというと、彼女はあきらかに僕のほうを指さして、僕の目をしっかりと曇りなき眼で見つめ、そのルール一部始終一切を丁寧に説明してくれたからだ。
「いやだ!!!!!」
逃げ出そうにも遅かった。
気がつけば大勢の同僚たちが僕の背中に乗り、羽交い締めにされた挙句、僕はパンツを脱がされていた。
沖縄の性犯罪は社会問題である。
暗がりでも奴らの顔は鮮明に思い出せる。
いつかラストオブアス2のようにゴルフクラブで身体中タコ殴りにして復讐してやる。
そんなことを思いながらも抵抗を続けていると、司会者であるオッパー店長が近づき僕に囁いた。
「あんまり暴れるとほんとに痛いですよ」
その声は戦場に舞い降りたジャンヌ・ダルクかのように優しく僕を慈しみ、観念させるのには充分な気迫を孕んでいた。
僕は今までおしりにはお母さんが小さい頃に入れてくれた座薬しか経験がなかった。
その時も高熱を出したが痛烈に痛かったのを覚えている。そんなもんムリに決まっている。
しかし2015年の夏、沖縄、
僕はあっさり限界を超えた。
超えちゃったのだ。
ヨツンヴァインになり極太の〇〇をおしりに入れ、あげく綱引きに負けてしまったのがさらに情けなさを煽った。
おっパブから宿までの帰路
「すごかったすよ!」「尊敬します」
生まれたてのバンビのようにひょこひょこ歩きながら、落ち込む僕をフォローしてくれた優しい後輩たちの目は泳いでいた。
さっきまで笑っていたのが嘘のようにその目はゾンビかの如く死んでいた。
こんな優しい後輩たちを持って感謝以外ありえなかった。すぐにでも成仏していただきたいものだ。
翌年の社員旅行もまた沖縄であった。
その年も「(僕の名前)のアレが見たいな」となった。
同じおっパブへ行き、なんと僕は2016年にはM字開脚から尻穴に風車を差して方角を確認する術を学んだ。
言い出しっぺは苦楽を共にし、「ほんとうの弟のように思っている」と言ってくれたサイコなお兄ちゃんだった。
2015年はおしりに入れられるだけでもキツかったのに。今はウソのように平気なもんだ。
ん?あれ。そういえばあの時、オッパー店長にチップを渡してショーをするように言ってくれた人がいたな。僕は去年確かに見た。暗がりの中で2000円を店長に渡し僕の方を指さしてくれた兄貴。
腕に彫られたピエロのタトゥーがブルーライトにキラキラと照らされ不気味な笑みを浮かべていた。
ほんとうに感謝以外ありえない。
しかしそんなことさえどうだっていいのだ。
あれから5年が経ち、僕は今限界なぞないのだなと改めて痛感している。
ラインなんか超えちゃえばそこにはまた新しいラインが生まれるだけだ。
オシリを出した僕の1等賞は今でも僕を突き動かす原動力のひとつになっている。
もし社員査定があればあの時嘲笑したやつ皆の役職を1等級にするよう進言する準備は出来ているのだ。
「限界を超えろ」なんて古臭いブラック企業大賞みたいなことを言うつもりはない。
ほんとうに限界を超えて命を落とした方だっているからだ。
だから「限界」についてよく考える必要がある。ほんとうの限界マンか。それともいつからか「限界」が限界水域を浅くして「ムリ」や「無駄」という言葉に還元されて”なにもせずに”限界を迎えた「保身」マシーンになってないか??
それは限界とは呼べないナニカだと僕は思うし、このコロナの時代を会社に勤める社会人として生きるのなら、毎日生まれ変わる覚悟で臨むほうが精神衛生上ちょうどよくさえあると思うよ。
沖縄に行けば分かる。
そこに吹く風が教えてくれた。
廻れ風車。
「限界」はだいたい大したことない。
いやほんとに。