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うさぎのカタルシス

葬儀屋さん

オーロラについて

2007年、僕はZepp Osakaにて、特に好きでも嫌いでもなかったNICO Touches the Wallsというバンドのライブを観ていた。


アニメ鋼の錬金術師でお馴染みの「ホログラム」が有名で、去る2019年バンドは活動休止してしまったらしい。

当時はイケイケの若手という具合に大規模プロモーションやら多くのフェスに参加していたのだが、鼻持ちならない容姿(メンバーみんなほぼイケメン)やファン層のほとんどはJKやJDで構成されていた為、古き良きブリティッシュロックのリスナーであった僕はなんとな〜く気に入らなかった節はあった。

今でいうところの[ALEXANDROS]的なもんである。ワタっとけ。


それでもこの頃の僕は大好きな音楽に拍車がかかっていた頃で、キューバ民謡からフレンチポップス、果ては北欧のV系までチェックするほどのめり込んでいた。

聴かず嫌いはしない。相手をディスる時はアルバムを聴き込んで「うん!それでも嫌いだ!」と材料を用意し、意見するようにしていた。

2000~4000円程のチケットで観れるバンドが至高という謎のロジックもあり、若手筆頭であった先のライブを拝見しに行った次第であった。


NICO Touches the Wallsはこの度、高名な亀田誠治師匠がプロデューサーとなり完成したアルバム「オーロラ」の表題「オーロラツアー」の一環で大阪へ来ていた。

やはり生音は音源の10万倍良い。人気曲を一通り演奏した後、イケメンボーカル光村龍哉氏がMCで急にこう言った。


「俺らが今回作ったアルバムは"オーロラ"ていうんだけど...この中でオーロラ見たことある人はいる??居たら手を上げてほしいんだけど」

 

 


会場は静謐とした空気に覆われた。

 

 


「そっか。。やっぱ、だれもいないよね...。でもみんなの見えないエネルギーが虹みたいになって、こう、なんとゆうかオーロラを作ってるように俺には見えるよ」

 

 


なんのこっちゃ。


オーロラはそんなもんじゃない。


僕は後悔していた。


恥ずかしくて手を挙げられなかった。


そう、僕はオーロラを見たことがあったからだ。

 

 

 

僕はフィンランドに行ったことがある。


ある日、母親から「旅行に行こう」と言われた。

母も父もとても旅好きな人で、記憶がない頃からよく海外旅行には連れていってもらえた。


「あんたの旅費に合計いくらかかったと思ってるの」帰省し、旅先の話が出るたびに、こんなことを母親からは揶揄されるが「子どもを置いて旅行には行けねーだろーよ」と毎度論破するようにはしている。


フィンランドは当時、日本からスイスで経由し15時間ほどかかった。

首都のロバニエミ、第2都市ヘルシンキを廻るプランだ。

マザーはいつもツアーを嫌がった。

巡るところは自分で決めたかったのか、食料はスーパーで買い、ホテルで調理という強者ぶりを見せつけていた。


フィンランド人はサウナが好きらしく、自宅にもホテルにもサウナが設置されており、マザーはスーパーで買ったトナカイの肉や見たことのない野菜をサウナの上で調理していた。


ジュ〜と焼き石の上で白い湯気をあげ、ホテルの一室で食べたトナカイの肉の味は不鮮明だが、非日常と日常が混濁する旅の質はとても素晴らしかったことは覚えている。


夜を知らないノスタルジックな白夜の奇妙。

4枚程重ね着をしてもインストラクターに「凍え死ぬぞ」と言われダウンを借りた犬ぞり

氷を砕く舟「砕氷船」に乗りたどり着いた北極点。

パキパキに凍った鼻毛や、三重扉の住居。


ちなみに両親は共に電力会社に勤めている。

ヨーロッパ特有の変圧器や地中に埋まった配電の仕組みを街中で論じていた。

客観的にも変な家族だ。


思い出はたくさんあるが、オーロラには計画性もクソもない。ただの自然現象の運ゲーである。

「運が良かったら見れるかもね」現地の人も口を揃えて言った。

1週間ほどの滞在で見れるかどうかは「ヒキ」次第なのだ。

旅の終盤、僕ら家族は世界中のサンタの総本山へ向かった。フィンランドは何を隠そう、ムーミンとサンタ発祥の地である。

金剛峯寺」や「西本願寺」などのイカつい名前ではなく、ファンタジー要素満載その名も「サンタ村」

そんなファンシーな冠に似つかわしくなく、郵便局の本社のような位置づけで、そこで世界各国から届いたプレゼントの仕分けを行い、リクルートよろしく各国のサンタはそこへ派遣された人材であるというなかなか設定がリアル。

奥の部屋にいる大ボスのサンタはまさに漫画に出てくる容姿で、赤服に身を包み、長い白髭をたくわえ、子供を連れた観光客の長い行列からチェキ1枚1800円という地下アイドルより法外な囲いを行っていた。


そんな蛮行ともとれる現実を11歳の僕は拒否し、母親が勧めるなか、あんな守銭奴とは撮りたくないと断固としてフォトストライキを起こした。


サンタ村でサンタの歴史やら絵画、絵葉書などを見たのち、帰路につこうとなった。

出口付近には大勢の子どもたちがたむろしていた。


そこには雪氷で形成された「サンタの滑り台」があった。

雪まつりのようなアレである。


入場料などない。乗り場もないが、世界各国から訪れた子どもたちが20人ほどの列をなして順番に滑って遊んでいた。


「アレに乗りたい」

 


気づけば僕は列に並んでいた。

僕の前には白人の男の子がいた。

後ろには黒人の男の子がいた。

オセロのように挟まれてイエローな僕と一緒に順番を待っていた。

黒人の子が「まだかな!」と興奮した様子で僕に話しかけてきた。

僕は「ねー」と返した。

前の白人の子はそれを見て優しく微笑んだ。


僕らは仲良く3人で滑降したのだった。


その出来事が僕のフィンランドのハイライトになった。

 

 

その帰りに驚くべきことが起きた。

 

 

不意に空を見上げると、満点の空のカーテンがかかっていた。

雲にしては明るく、淡く光を帯びていた。そしてその雲のようなモノは動物のように蠢き、西の空では一際輝いていた。

 


「あれがオーロラかあ」

 


飛び跳ねるほど美しく綺麗だった。

旅が終わるキワキワでヒけたのは、とても感慨深かった。


「オーロラを見たことがある」という人生を手に入れたが、それを自慢したことはない。

不意なMCに臆して手を挙げられなかった要因のひとつがそれだった。

 

オーロラは綺麗だ。ただ、それだけのもんだった。

 


両親からはバカにされ溜息まじりに「ほんと何十万もしたのにいちばんの思い出はすべりだいかよ」と言われるが、僕は全く恥じてない。


彼らにも同じように思い出として残っているだろうか。

一緒に並んだあの子たちは僕と同い年くらいだとして、今30そこらでうまくいけば世界のどこかで同じように暮らしてる。正しく怖がってマスクして、晩メシの支度でもしているかもしれない。

名前も知らず、人種も違う彼らとあの日僕は一緒に遊んだ。


僕にとってキラキラしていたのは西の空にたなびいたカーテンではなかったのだ。


見聞した僕だからこそ、安易なオーロラ論は通じないし、ディスる権利がある。

聴かず嫌いはしない。


その意味であのMCは正しかったのだ。


オーロラを見に行って、オーロラを見たが、それより綺麗なものがあった。ただそれだけのもんを得られるから旅は素敵なんだと思う。


その美しさを分け与えられるような男になれるよう努力を。

ライブやフェスができる世界情勢になるように安心を。


子どもを笑顔にして溜め込んだ金を世界中へ配るため、あの奥の部屋にいるサンタの元締が重い腰をあげてくれるよう

西の空へ想いを馳せる時分である。