葉月の蛁蟟
僕は大体毎週火、水曜日は草津市社会福祉協議会に赴き、ボランティアに参加している。
河川のゴミ拾いから山の草むしり、半身不随のおじいちゃんや車椅子に乗っているおばあちゃんをリハビリ施設から自宅まで送迎する障害者ボランティアまで。活動は様々だ。
こんな体たらくが殊勝な心がけを...ではない。
当然僕は会社員であり社会人の営業マン。
こんなこと言う必要はないが当然裏がある。
今行っている事業において「地域貢献」「社会福祉」「ボランティア活動」と銘打ちたいわけだ。
「ウチの会社はこんなこともやってます~地域における社会福祉ボランティアの~」
という流れだ。
動機は不純どころかまっくろくろすけ。
こんなにも浅薄でヨコシマな僕をおじいちゃんたちはいつも笑って「ありがとう」と仰ってくれる。
でもまあ小学校くらいから「ボランティア」という名前の正体はそんなもんだ。
単位をくれる学校だってあるだろう。
非営利目的であり経済性もなし。
なにか金になる糸口はないかとギラギラしている僕をひとりで施設に向かわせ自宅まで送迎させる。このガバガバさに拍子が抜け、後ろめたさや罪悪感が浮き彫りになる時もある。
おいおい、自己犠牲は自己愛と自尊心を潤してくれるのではなかったのか。
今日も昼からリハビリ施設へ車椅子のおじいちゃんを迎えに行った時のことだ。
「あついねー」「あついっすねぇ、今日は体温くらいあるらしいですよ」と会話すると
「ごはんが家にないから、コンビニに寄ってくれないか」とおじいちゃんは言った。
いつもとは違う道だった為スマホのGoogleマップで帰路を検索した。
おじいちゃんはひとこと「スマホってすごいね」と言った。
先日感銘を受けた本のことを思い出した。
「AI vs 教科書が読めない子供たち」というタイトルで、数学界、AI技術の第一人者である新井紀子先生によるビジネス書の皮をかぶった教育書だ。
皆が言うAIというものはまだ存在しておらず、AI技術と呼ばれるものが存在しているだけの状態であること。
ターミネーターやSF小説のように「機械vs人間」という図式、人類史とはその後のAIへの進化の道程、いわばシンギュラリティ(技術的特異点)は来ないということ。
まずこれが本の前提として挙げられる。
SF大好きな僕からすれば「えーこねーのかよ」と思いながらその理由が語られる。
著者の中では実際「東ロボくん」と呼ばれるAIが東大受験に受かるのかの試みのもと、様々な入試問題をAIに課していく記述がある。
結果はなんとMARCHレベルはクリアできたとのことだが、東大には落ちてしまったらしい。
その理由というか最大の障壁が「国語」と「英語」だったのである。
興味深いので試してみてほしい。
AIいわば音声認識技術や統計学の象徴、Googleの「Siri」彼女にこう聞くのだ。
「このへんのイタリア料理のお店」と
検索結果は当然評価やおすすめ度の高いものから順にイタリアンが羅列されるだろう。
次にこう聞いてみていただきたい。
「このへんのイタリア料理”以外”のお店」
検索結果はどうなると思うだろうか。
なんとそこには「イタリア料理店」が並ぶのだ。
おかしな話だ。
僕はたしかにイタリア料理”以外”と言ったはずだ。
そう、こいつは勝手に「以外」というワードをハショったのだ。
なぜなら統計上そのような検索をする奴はいないからだ。
「このへん」「イタリア料理」「お店」で検索をかけている。
つまりこいつは「以外」が読めない奴だったのだ。
著者の新井先生は言う、数学が落とし込める限界は「計算」「確率」「統計」であると。
だから国語と英語はからきしだったのである。
続けて著者はこれから社会、仕事において必要な能力とは2つだけだと宣う。
それが「コミュニケーション能力」と「読解力」
この2点こそAIには出来ないことだからだ。
「AIに奪われる仕事ランキング」おそるるに足らず。シンギュラリティもこなければAI技術はその正体たるや「以外」も読めないやつだったのだから。
本を読み進め安堵した瞬間、とんでもない地獄に落とされる。
「だが、AIに出来ないことをあなたたちにできますか?」
と問われるのである。
「え?」
読者はぎょっとするだろう。
簡単な問題だが、著者曰く「人生を左右する問題」を紹介する。
これは大学入試を終わりたての学生を対象に行われたテストだ。
「奇数と偶数の和はなにになるか」
次のうちから選びまたその理由を答えよ
・いつも奇数になる
・いつも偶数になる
・どちらにもなりうる
正解は
奇数である。
ただ「理由」を答えよというところで多くの人は「え?」となるはずだ。
「理由」というところがポイントらしい。
しかし多くの学生は「足したらそうなった」とか「わかんなーい」と答えた者がほとんどだったらしい。
この理由の正解には式がいる。
2n+(2m+1)=2(n+m)+1
n.mで違う数字を当てはめる可能性まで考慮して満点。そう、これは数学的証明を求める問題だったのだ。
しかし、結果はどうだろう。「足したらそうなった」?「やってみたらそうなった」?
著者の先生は思った。
「あれ?わたしこいつらに証明を求めているのに、こいつら問題文読めてなくね?」
そうこの本はビジネス書でも数学書でもなく、国語のススメの本であったのだ。
それをAI、数学の第一人者が言うのだから重い。
本の締めくくりをまとめると、これから世界はこの「以外」も読めないAIと「問題文」も読めない子どもたちの時代がくる。
事務職も要らなければ、銀行に半沢直樹も要らない。確実に仕事はAIによって奪われる。
AIに出来ないことは「コミュニケーション能力」と「読解力」それだけが人間に残された強みである。
それを持つ人たちは生き残る。
しかし、その能力が幼少の時からの読書習慣だとか、友達がたくさんいることだとかそういったものには何も起因しておらず、現状どうやったら「読解力」が身につくかは分かっていない。
みなさん、生き残ってください。
というなんとも警鐘だけでは済まない身の凍えるような内容であった。
話と時を戻そう。
無事セブンイレブンからおじいちゃんを自宅に送り届け、協議会へ連絡。
「コンビニとかはなるべく寄らないでいただきたい」とチクリと怒られた。
「なぜですか?...!..あっ..この仕事の範疇じゃないんですね」
「一応、そうなんです」
今日はこの夏いちばんの暑さだ。
おじいちゃんの家からはスーパーでも2kmはあるだろう。
僕は「分かりました」となるべく機械的な返答をして、車に乗り込んだ。
自動車の自動運転技術も進んでいるとよく聞いている。ともすれば50年後にはロボットたちが足の悪くなったフゴフゴの僕をリハビリセンターまで届けてくれるかもしれない。
でもきっと帰りにコンビニやゲーム屋には連れて行ってはくれないだろう。
あいつらは結局「この夏いちばんの暑さ」も、知らず知らずにすげ変わった僕の正義感への変遷さえも気づけないだろう。
明日は我が身だ。今ここが生物学上の進化の過渡期だとして、人間に残された抵抗?という言い方はあまりにヒューマニスト過ぎるだろうか。
僕にできることはなんなのだろうか。
もしかしたら”共感”や”共有”こそ僕らの武器の鍵を握るかもしれないな。
そんなことを考えながら、夏本番となった草津川の景色に目をやった。
車外では8月のミンミンゼミがけたたましく鳴いていて、ロボットのように口を噤んだ僕の代わりになにかを叫んでいた。