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うさぎのカタルシス

葬儀屋さん

頭を垂れよ、侘助

稲盛和夫 著「生き方」という本を読んだ。

 

ボリューミーな内容で舌を巻いたが、サクサク読める妙があり、オススメする。テーマも深淵である。

著者の稲盛氏は「生き方」なんて大それた冠に臆することなく、堂々たる内容を受け手に提示している。

それは、稲盛氏自体の単なる「生き方」の押し付けではなく、自己啓発本あるあるの金持ちマウンティングは存在していない。

我々受け手がこの本を読み、どう享受し、吸収していくかという余地が多分に残されていた点においても、著者の器の大きさと優しさが滲みでている本であった。

読みやすい1頁の中には膨大な情報と感性を内包しているものもあり、とても処理、昇華が追いつかない為、気になったところを、自分の経験談をふまえてご紹介する。

 

それが、「現場に宿る「神の声」が聞こえるか?」

というものだ。

 

聞かざる声を聞いたことはあるだろうか。

見えざる手でもアダム・スミスでもない。

僕はなにを隠そう、鶏肉とウサギの「声」を聞くことができる。


鶏肉の声は仕事柄、長年の焼鳥経験の研鑽により培われたものだ。

「見聞色の覇気」だとか「八百万の神」だとか呼び方はなんでも構わない。

いかにその声に耳を傾けるかが仕事であり、それが聞こえなくなった時、人は鶏を焼けなくなるのだ。それだけは確か。


ウサギも同じ理由である。

僕は長らくウサギを飼っている。

およそ15年弱のキャリアを持ち、ウサギのことはなんとなく分かる気がしている。

ウサギの喋っていることを分からないような奴はウサギ飼いとしてはまだまだ蒙古斑のついた青二才だ。

20歳の大学生だった頃、近所のペットショップで彼女に出会った。

有象無象の小動物の中で彼女は一番星のように瞬いており、凛とした横顔と大きく優しい瞳が気丈な雰囲気を出していた。


名はジャニス。

27歳で逝去した女性ロックシンガー、ジャニス・ジョプリンの名を彼女に与えた。


ジャニスはホーランドロップイヤーの雌で、みんな大好きピーターラビットのような容姿ではない。あの耳が垂れたやつだ。


僕はウサギにおいて、ロップイヤーを強く推している。

大体なんなんだ。あの容姿。

弱肉強食の世界でウサギは被捕食者であり、人間のエゴによる配合、ソシャゲの進化合成のような結果なのは理解できるが「聴くために発達した耳がそれにより聴きづらくなっている」その二律背反たるやまさに哲学的で、ロック。宇宙の本質を僕はロップイヤーに見出している次第であった。

 

話を戻そう。

その”声”たるや宗教的でスピリチュアルな眉唾物のような話ではないとだけ伝えておく。

 

15年程、昔の話である。

 

「○○(僕の名前)はさ、”声”が聞こえへんの??」

 

僕は当時、会社のグループがまだ兵庫県の片隅で小規模だった頃、そこの焼鳥屋でバイトをしている普通の大学生だった。

1こ上の先輩であり、今やグループの社長が、僕に仕込みの時間、唐突に聞いてきたのが先の質問であった。

 

「声?」

 

僕は聞き返した。

 

「そう、鶏の”声”」

 

(なに言ってんねん、こいつ、やば、帰りたいわあ..)「いや、え?声?すか....??」

 

「うん、串うちでな、”こう刺してほしいよー”とか焼いとっても”ここはこうちゃうでー”とか」

 

「鶏は死んでるでしょ?声なんかするわけないじゃないですか。え、なに、アニミズム偶像崇拝?笑」

 

「いや、まあそりゃあそうなんやけどなあ...」

 

それから5年が経った頃、僕は滋賀県にいた。

いっぱしの飲食マン、焼鳥屋の店長になっていた。

各地で、出店事業やオープニングに携わり、滋賀で僕はブレイクし、爆発した。

簡潔に言うと、仕事において自分を表現する術を身につけたのである。

当時のグループ何十店舗もの売上記録を日々ぶち抜いていった。

場末のゲーセンのストIIのレコードのように、僕が在籍した店舗でその名は埋めつくされた。

 

しかし、神戸の田舎町で小さく営業していたスケール感のまま走っていた為、当時は100席もの席数のさばき方も知らず、ありえない程の量の仕込み、清掃する場所だって比例し大きくなる。

僕は疲弊し、それを若さと体力と根性で乗り切ろうともがいていた。

 

いつも通り、早めの13時に店に着く。

出勤は15時だが、それじゃあ当時の僕では間に合わない。

ごはんだって食べる暇もなけりゃ人間貧すれば鈍すだ。

今日も僕は今からここにある20kgちかい肉塊を15cmの竹串に1本ずつ刺しながら、仕込みをする。

 

その時だった。

 

「ここの筋を刺すとラクだヨー」

 

「ん!?」

 

「待って、まだボクのお肉残ってるヨー」

 

「....ん!!?」

 

辺りを見回すが、周囲に人影はない。

伽藍堂の店舗にいるのは僕と、鶏肉と、静謐とした水道の「ピチャン...」という冷たい音だけだった。

 

ページを戻さないで頂きたい。これは怖い話ではないのだから。

 

なんにせよ、僕はその時”声”を聞いた。

初めての経験に高揚し、感心と興奮で目を見開いたのを今でも覚えている。

社長が言ってたのは「コレ」だったのか。。。

 

その後、”声”は次第に大きくなっていった。

 

最初は鶏肉だけだったのが、アルバイトの”声”、お客さんの”声”、焼き台いっぱいに広がる焼鳥の”声”...。

あらゆる”声”が僕に話しかけてきた。

 

店は満席でとても忙しい。

焼き台の網には200本程の焼鳥が並び、お客さんの往来も激しい。

真実なので、信じて頂きたいが、それがどこにあり、どこへ向かい、今からお客さんが来るかどうかさえ、僕は目を閉じても分かるようになった。

 

自分と店が調和しすぎて、エヴァ初号機のようになってしまったのだ。

 

「生き方」という本にはそれ以外にも、万人にとって、どこかで経験し、体感したことを分析し、わかり易く示してくれている。

金言はあるが、それはそれ。

 

あくまで、人としての基盤を認識し、日常を如何に哲学し、ロックするかだと僕は感じた。

 

ありきたりな言い方だが、僕の人生は僕でしか体験しえない。

 

こんな長いレビューのような、回顧録のような、感想文を文字に起こすことが出来た。

 

今日の僕に、僕は満足している。

 

そして、満足感に満ち満ちた僕は、温故知新の教えに準じて、春の青葉のような後輩社員たちにこう説くのだ。

 

「お前には焼鳥の声も聞こえないのかい??」と。

 

僕もまだまだである。

頭を垂れよ、侘助

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