焼鳥屋が葬儀屋になる話~後編~
中編→https://cellar-door.hatenablog.com/entry/2021/03/19/022713
翌日、いつも通りに出社し、仕事に取り組んで、あっという間に帰社時間となった。
すると社長は事務所から人が出払って、僕と2人きりになったのを窺うかのように、真剣な面持ちで僕に切り出した。
「こないだの…昨日の話やねんけどな、〇〇(僕の名前)はほんまに興味があることやったん??」
「…。えぇ、まぁ。ずっと自分が何のために生きてるか、自分の存在とは何なのだろうか。なんて事ばかりを考えてきたので、間違いなく興味というか。はい、帰宅してからも、もしかしたらそんな人生があったかもしれないなと思いを馳せました 笑」
「そうか」
しばらくの沈黙ののち社長は言った。
「どうやろ、お話だけでも聞いてみる??」
「え?」
「いや、どんな業務なのかとかお給料の話とか」
「えー、何ですか笑 そんなに厄介払いしたいんですか笑」
すると社長の剣幕が豹変した。
「そんなわけないやろ!ただ、もし本当にやりたいことだったならそれを阻害するようなことをしてはいけないと思っているし、何より自分が育ててきたもんを引きちぎって誰かに渡すなんて、我ながら正気の沙汰じゃないとも思っている」
社長は当初この話を”僕へのご指名”を伏せてきた。厄介払いなら問答無用でそうしただろう。そうはしなかったことの裏なんか取れている。
社長も会話しながら自分の考えを整理されているように見受けられた。
だが、それでも僕はたじろいだ。飲食店や今の営業や企画の仕事、それだって十分に楽しかったからだ。
まぁそんなに気にすることはないだろう。お話を聞いて「あーやっぱりちょっとちゃうっすねー」と言えば良い。
「自分のことばかりで申し訳ありません。ではお話だけでもお伺いしようと思います」
じゃあ先方に伝えておくと言われたその一時間後の帰宅途中、釣り好きの葬儀社のおじさんから電話が掛かってきた。
なんとも舌を巻く行動力の早さであろうか。
「ありがとう!お話は聞いたよ!いつ来れるんー??ちょっと本社でお話したいなと考えています(^-^)」
「ああ、大丈夫です。ええ、〇曜日ならば、はい」
2分ほどの電話で、僕は人生が変わるかもしれなかった。
明日からなにも知らない、全く未知な仕事に携わるかもしれない。
友達も仲間もいない。
そんな「ガチ」感に少し慄いた。
本社での面談の日はすぐに訪れた。
神戸市中央区の古い建物の地下事務所に僕は呼ばれた。
面接というほど堅苦しくもなく、ただどんな仕事なのか条件、待遇等。
それでも一応形式的なものとして簡単な履歴書は作成してほしいらしかった。
葬儀社の社長も同席するとのことで緊張していた。
なにより、僕は葬儀社に入りたい!と思ってお話をしに行くのではない。
あくまで参考程度に、どうですか?って話を聞いて考えるだけだ。 イヤなら断りゃいい。
釣り好きのおじさんが僕を迎えてくださり、応接室に案内して頂いた。
代わる代わる重役の方々が訪れてはご挨拶してくださった。
「今日はありがとう(^-^)」
いつもの笑みで釣りおじさんは言った。
髪を切るのも忘れ、リュックに忍ばせたボロボロのワックスで前髪をあげ、駅前の古めかしい写真撮影機で現像し、すぐさまそれを唾で貼り付けた粗末な履歴書を3秒くらい見られると、条件や待遇等の話、具体的な勤務形態の御提案を頂いた。
簡単に言えば、特殊な業態である以上、仮に僕が焼鳥屋を退社し入ってくれても、実際の現場やご遺体を見る触るということに心が折れ、「やっぱり無理やった」とならないようにまずは週2~3での勤務。
給与面ではトータルで見た場合、今よりは少し減額。
しかしなにより念を押されたのが、家族、親戚においてこの仕事が「NG」でないかどうかというところであった。
僕の寛容な家族たちのことは置いといたとして、条件、待遇面も大事だが、しかし僕という物件の肝は、その仕事が「楽しい」かどうかという僕自身の主観的な物差だけである。
それだけで生きてきたといっても過言ではない。
日々「哲学」を用いた死生観や、僕の夢もそこで明かした。
しばらくすると、釣りおじさんから笑みが消え、僕は問われた。
「〇〇くんさ....ご遺体持てる?」
「持ったことないから分かりません。持てるかどうかも持ってみないと分かりません」
僕は即答した。
厨二病大好き、量子力学の基礎「シュレディンガーの猫」だ。
観測され初めて実体は実態を得る。
フォレストガンプでも言ってたじゃないか、トム・ハンクスの母親が「人生はチョコレートの箱だ」と「開けるまで中身は分からない」とも。
びっくりするほど、簡単に、単純に
僕は面接後の次の週から葬儀屋でのアルバイトを始めた。
午前8時半に出社すると、よろしくお願いしますの挨拶もほどほどに「君が〇〇くん??お迎え入ったから病院行くで!」と僕の上司らしき人に言われ、言われるままに霊柩車に乗り、僕はそこで所謂「行政」と呼ばれる生活保護受給者の方のご遺体を大学病院の解剖室まで迎えに行った。
周りから「えっ、いきなり病院すか??」との声がザワザワと聞こえた。
だが僕はそんなもんは知らなかった。
仰せの通りに追従した。
病院や施設等でお亡くなりになられる以外は、事件性の有無等、医師の判断に基き、ご遺体を解剖する場合があるとのことだった。
病院の解剖室まで行くと髪の毛を界王拳4べぇくらいに赤く染め、苛烈な関西弁を繰り出しそうなおばあちゃんがそこにはいた。
そして合掌ののち、僕はあまりにすんなりとご遺体を抱え、担架に乗せた。
「ご遺体を扱えるってだけで壁はひとつクリアだ」
上司らしきおっちゃんが僕に仰った。
もちろん、なにも思わなかったわけではない。
ただ不思議と「触りたくない」とか「イヤだ」という感情にはならなかった。
この人の帰りを待ってる家族がいるかもしれない。
綺麗にして送り出してあげなくちゃあ。
崇高なんて想いじゃない。
ただ、人としてそうしなければいけないと感じた。
さっきまで家でポケモン対戦のYouTubeを見てたはずなのに、若い頃よく行ったラーメン屋の近くの病院に、お腹を開かられたおばあちゃんのご遺体があった。
告別式はその翌日に開かれた。
旦那らしきおじいちゃんと娘さんだろうか、僕より少し歳上であろうお姉さんが我が子を抱えながら、しくしく泣いていた。
「よー頑張ったな」
「苦しまへんかったか?」
と死化粧を施したおばあちゃんに向かって囁いていた。
式のあと、僕はお棺を寝台車へ乗せ、その寝台車はご家族と共に、神戸市イチの規模を誇る火葬場、鵯越(ひよどりごえ)斎場へ向かった。
僕は「死」に慣れていない。
両親ともに存命で、物心つくかつかない時分に亡くなった曾祖母や祖父くらいのもんだ。
目に涙を浮かべていたかもしれない。
礼をしながら、その寝台車を見送った。
「○○くん(僕の名前)さ、ご遺族の方々に対して、言ってあげられる言葉ってあると思う??」
それを見た上司らしきおっちゃんに問われた。
その人は僕が入社するにおいて所属する部門の長だった。
この道20数余年、送り出したご遺体は3万を優に超えるだろうと仰っていた。
「...えっと、、、葬儀屋としてですよね。”お悔やみ申し上げます”とか?”このたびは~”とかですかね?」
「うん。そうなんやけどな、おれはな、思うねん.....ご遺族の方々にかける言葉なんかないって思うんよ。だっておれは家族じゃないし、ただ、自分の役割を、使命を恙無くこなすだけ。それぐらいしかできひん」
薄っぺらい”お悔やみ”をよしとしていないのか、葬儀屋における現場監督だからか、その真意が分からず、僕が押し黙っていると、部長は続けざまに仰った。
「だって僕達はプロやからね。だから泣いたらあかん。泣きたいのはご家族の方や。決して”持ってかれ”たらあかんねん」
入って2日目の得体の知れない奴に言ってくれる言葉としては、それは最高で最上のものだった。
少なくとも僕においては。
僕はこの春から葬儀屋で働くことを決めた。
理由は、不謹慎と思われるかもしれないが、この仕事が「楽しい」からだった。
半年間、週に2~3回のシフトでも多くの体験をした。
宗派による葬儀の差異や、納棺の仕方、故人様の最期の入浴「湯灌(ゆかん)」
新しいインプットも楽しいが、なにより楽しいのは、「死」にこんなにも向き合える仕事はないと感じたからだった。
何のために生まれたか、それを考え抜いた挙句辿り着いた場所のように思えた。
勿論この業界に対して、なにも思わないわけではない。
古臭い慣習のようなものから、環境への不満、悪口。妬み嫉み。
どっこも変わらんな〜と思い、それを変えるためには僕はその慣習の中でのし上がらないといけない。まったくもって楽しみしかない。
僕もいつか死ぬ。
これを見たあなたもいずれ死ぬ。
別にチェーンメール(死語)の類ではない。
施設や病院の今際の際で亡くなる方々が最期に言うセリフランキング第1位は「あの時あれをすれば、こうしておけばよかった」という後悔の念らしい。
この生を豊かにする為に、僕は今、「面舵いっぱい」と帆を張ったバイキングになった。
これで「ああすればよかった」がひとつでも減りますように。
有給消化において、肉弾戦車、秋道チョウジのように肥えたワガママバディを改造せんがために、ジムに払った入会金と月謝だけは、後悔しませんようにと祈るばかりである。