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うさぎのカタルシス

葬儀屋さん

バナナホルダーをその舟に乗せろ

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高瀬舟ーーー。


国語の教科書にも載っている為、知ってる人も非常に多いだろう。

医師免許を持った異端の作家、森鴎外による短編小説だ。

20年以上前に教科書で読んだこの小説が、最近気になって仕方がなかったので久々に読了した。


活字や紙の本が苦手な人は、YouTubeで朗読バージョンもあるのでそちらもレコメンだ。

声優さんの綺麗な声で短編の為30分ほどで終わるのでかなりお手軽なように思われる。

寝る前なんかは特に良い。

 

 


京都には高瀬川という川があり、島流しにされる罪人は高瀬舟に乗せられ京都から大阪へと送られる。


京都町奉行の庄兵衛は弟殺しの罪で島流しとなった喜助を護送するため、高瀬舟に同乗した。一般的に高瀬舟に乗せられた者は悲しそうな素振りをするのだが、喜助はそのような様子を見せることなく楽しそうにしている。

 


それを不思議に思った庄兵衛は、喜助に事の次第をたずねる。喜助はつらかったこれまでの暮らしに比べれば、牢では何の仕事もせずに食べ物が与えられることや、はじめて自分の自由になるお金を持つことができて、それを島の仕事の元手にできるということがありがたいと言う。


そして、弟を殺したのは、自殺をはかったが死にきれずに苦しんでいた弟に頼まれてのことだったことも明かす。

 

 


ざっくりしたあらすじは、こんな感じだ。

 


病に臥し、兄貴の迷惑になれないと弟が自殺を図るシーンの目も覆いたくなるほどのひりつく臨場感や、ラストで庄兵衛は最後までこの喜助がしたことは果たして罪といえるのかという答えを出せないまま、高瀬舟は夜の川に消えていく情景の表現は、さすが。まさに森鴎外の傑作である。

 


さて、この小説は一般的に2軸のテーマがある。

 


表立ったひとつのテーマは「安楽死の是非」を問うもので、

 


もうひとつの裏テーマが「知足」

 


つまりは「足るを知る」ということについてだ。

 

 

 

当時この小説を読み終えた後、中学生くらいだったか「安楽死の是非」についてクラスでのディベート大会が行われた。

僕はどちら側でも良かった。

のでテキトーにのらりくらりとした意見を述べた。

 


それよりも僕が興味があったのは、この裏テーマである「足るを知る」ということについてだ。

 


知足。足るを知る。

老子の言葉で「足るを知る者は富む」

つまりは、「何事に対しても、“満足する”という意識を持つことで、精神的に豊かになり、幸せな気持ちで生きていける」

 


ということらしい。

 


当時僕は高瀬舟の感想文に、「そんな人間なんかいない。リアリティもくそもない。人間はどこまでいっても欲深い生き物で、それには際限がない。しかし、それこそが人間の本質で美しい」みたいな内容を書いたように思う。

 


ホトケになれってのか??馬鹿馬鹿しいと。

15歳が書くにはまあまあ過激だが、当時AC/DCThe Clashなんかを聴き、ドラッグ、セックス、ロックンロールな僕からすれば、すごく真っ当にすくすく育ったなと思われる。

 


僕は10年以上、辞めとけだ、ブラックだなんだと言われる飲食業界に従事し、それなりに楽しく暮らしていた。

15時間労働もなんのその。終わらなきゃ帰れないんだから。

100連勤?おー上等だコラ。ソリが合わず社風に背く奴をクビにしたんだから。

雀の涙と言われる給料でゲームを買って、酒が飲めたらそれで良かった。

「ブラックなんて他人が決めるモン」

「自分が決めた道に言い訳をしたくない」

そんな言葉で自分を鼓舞し、命を懸けた。

 


それが間違っていたなんて葬儀屋になった今でも思ったことはない。

 


転勤ばかりしていた暮らしの中で、引越しにも慣れ、それも洗練されると、冷蔵庫や洗濯機、ましてお気に入りのソファーなんかない生活が僕にとっては至極当たり前の話だった。

 


僕の夢は再三再四、家族を育み、地元の佐賀県の空き家となっている生家で死ぬことである。

最近両親の助力により、その家を改築したもらった際、9世紀頃の土器やら、城の石垣やらが出てきたらしい。

やはりパワースポットなのだなとホッとしたが、その話は面白いのでまた後日。

 


遠くの地にて死ぬことを決めている僕は今あるモノ全てが単なる「借り物」のような感覚なのである。

なぜなら持って行くには重いモノばかりだし、天国に5Kテレビを持っていった人を見たことがないのを重々承知しているからだ。

 


しかしなにもミニマリストヴィーガンのように生きろと言ってるのではない(同一視して申し訳ないが禁欲、節制的な意味で)

冷蔵庫はやっぱ便利だし、ゲームはしたいし、エアコンは快適だ。

飢えに苦しむ子どもたち?ふーんあっそとマクドハンバーガーを食べきれないと残してしまう。それが現実。

体験がなければ人間は本質を理解できない。もしくは理解したつもりになることしか出来ない。

そういった意味では15歳の僕が伝えたかった内容は本質的には正しかったかもしれない。

 

 

 

それが、今やどうだ。

 


家があり、車がある。

大きなテレビと食事をするIKEA産のダイニングテーブルや椅子がある。

綺麗な妻と可愛い息子がいて、たまに外食や牧場にも行ける。

 


胡散臭い自己啓発セミナー講師や経営者は迷える仔羊にいつもこう問いかけてくる。

「夢はあるのか?」「あなたの夢を教えてください」「そのためにしていることはなんですか?」

 


またその話か?

 

 

 

夢ならとっくに叶っている。

 

 

 

夢は社会的な願望とはまた違うところにある。

夢が叶えばまた別の夢をでっち上げて、終わりのない螺旋階段を昇るんだろうか。

社会的にはきっとそうかもしれないが、夢と願望をごっちゃにしてはいけないように思う。

金だって稼がなきゃいけないし、オムツだって買わなきゃいけない。水道料金や車検費用もそうだ。

息子が産まれるまでは健康にさえ産まれてくれと願い、健康に産まれれば、やれチャリに乗れるようにと、スイミングができればいいだの、やれいい大学に行けるように教育をだの。

マッコトいい例だ。

 


「足るを知る」為に「足るを知らない」世界で金を得る矛盾が存在する故、死んでホトケにでもならなきゃ「足るを知る」意味なんか真に捉えることはできないだろう。

明日から、やれ金が欲しい、やれもっといいメシが食いたいだのと宣う僕がいるだろう。


「足るを知る」とは生きている限りは、立ち止まって振り返り、刹那的に知るものだ。

そしてそれを逡巡し繰り返すことが人生なようにも感じる。

 


15歳の僕とは違う結論が出た。

当時の彼は人間の薄汚さや動物的な本性に興味があったんだろう。

それは間違いではなかったが、正解でもなかった。

そう考えるにはお前はまだ若く勿体無い。と今の僕なら言えるだろう。

これだって「足るを知る」ことであろうか。

今あるものにひたすら感謝を惜しまずにはいられないな。

そしてこれ以上望むものなんか実は大してないかもしれない。

 


久々に森鴎外を読了し、高尚な感傷に浸っている最中だった。

 


我が良妻が、IKEA産の木目テーブルの上のバナナを指差して

 


「'バナナホルダー'が欲しいねんけど」

 


と言った。

 

 

 

なんでも愚息の為、朝食やおやつにもよくバナナを購入するらしいが、テーブルの上に長時間置いておくと足も早く、鮮度や味を保つ為にもバナナホルダーの購入を検討しているらしい。

 


バナナホルダーを僕は東急ハンズで見たことがあるが、バナナ1本に対して1つ。曲線のケースがあり、まあまあな幅を取る。

そんなもの房単位だと何本分になるのだろうか。

そんなやつが堂々とした風体で毎日食卓に鎮座するのは邪魔が過ぎやしないか。

全くもって足るを知らねェの代名詞。

当時こんなものを購入するのは何処の阿呆だと嘲笑した思い出が一気にフラッシュバックした。

 


良妻賢母で、元AKB渡辺まゆゆ似の女性がそこにはいた。

紛うことなき僕のラヴァー。

君は阿呆なんかじゃない。今日も愛している。

 


そして僕は知っている。

 


以前妻がネットで買った「バターカッター」なる長方形状のケースで、バターを小分けに切り保存する道具が今、冷蔵庫でバターをお迎えすることなく、平城京の街並みかの如く区画整理された様子で、空っぽのカッター冷やし器になっていることを。

 

「このへんが左京かな??じゃあこのへんが右京だね」

などと言ったら、日本史に微塵も興味ない妻に「あなたの命を頂きまゆゆ♡」とKGBばりのスキルをもって、バターカッターで切り刻まれそうなので、口が裂けてもその冗談は言えずにいる。

 


それでも明日には「愛する息子の為でしょ」の大義名分のもとに、バナナホルダーを握りしめレジへ向かう36歳の中年がいるかもしれない。

 


いやはや、「足るを知る」だなんて全く難儀この上ない。