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うさぎのカタルシス

葬儀屋さん

メメントモリ

お暇を頂き、名古屋へ。

目的はただの飲み会である。


2019年の暮れ、10月~12月までの3ヶ月間を僕は縁もゆかりも無い名古屋で働くこととなった。

閉店が決まった焼き鳥屋の店長として、だ。


お店に命があるとすれば、そのお店はもう「終活」の真っ只中であった。

中心にいたマネージャーもいない、オープンからそのお店に立ち続けた看板店長も、僕が訪れる半年前には退社していた。


仰せつかったミッションはこうだ。

僕は知らないアルバイト10名ほどと共に、知らないお店を、綴が無く、閉店させる。


野球で言うところの「クローサー」の仕事だ。

ただし、この場合は10-1で負けてる試合に、負けてるチーム側が9回に登板させたピッチャーの気分ではあったろう。

「ただこのお店を終わらせること」

それのみをインプットした僕は名古屋に来た当初、それはそれはスカしたターミネーターのようになろうとしていた。

今思うとそんな精神なぞ溶鉱炉にポイしてグツグツ煮てしまえばよいのだ。


今だに思う。

「終わらせ方」とは人それぞれなんだろうなと。あれが〇〇さんなら、〇〇ならこうしただろうと考えたところで、今そこで動くべきは自分1人である。虚無というよりそれが真実。


1ヶ月を過ぎるか過ぎないか、僕は店舗の環境や、もとい名古屋の文化に辟易としていた。

アルバイトは作った賄いのお皿すら洗って帰らない。信頼関係もないもんだからシフトも出ない(まして閉店するお店そらそーだ)

言葉や笑いのツボ、お客さん同士の会話や返し。

なにひとつ、面白くなかったのである。


道の真ん中で「おまえらほんまおもんないよな」と言うわけにもいかず、そんな時はボソボソと愚痴を呟く、本当の意味でのTwitterを活用し、知らない街の夜空を見上げてはショーシャンクの空にを再現した。

なにより僕のミッションは「お店を綴が無く終わらせること」それだけなんだと言い聞かせ、反芻していた。

だがなにより辟易としていたのは、そんな任務を抱えるだけで、頑張ったフリをしている自分自身であるのかもしれないと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 


僕はある日、任務を忘れた。

 


厳密に言うと、任務に新しい「誓約」を取り付けたのだ。

 


「お店を”楽しく”終わらせる」

 


大体、綴が無くってなんだ、葬式かよ。

未来とは今の連続性である。

つまり「今」幸せなら未来永劫幸せなのだ。

最後の最後まで声を出し切って、笑って、「死にたくない!」と言いながらこのお店の死を共に過ごそうと思えた。

そうしたら、周りが変わっていった。

アルバイトは食器を洗い、シフトも埋まっていったのだ。

 


迎えた2019年12月30日

 


冷めやらぬ師走の喧騒と年末年始への慌ただしさを残して

多くのアルバイトの涙と共に

そのお店は「僕なりに」ちゃんとした「死」を迎えることができた。

"楽しく"死を迎えることができたのである。


10月頃に来た当初見ていたバイトノート(フランクな業務日誌のようなもの)にはこういう接客をしよう!とか備品が足りないだとか、業務的な内容が淡々とノート上で議論されていた。


最後の日にそのノートは

人への感謝とお店への感謝

出会いや成長への感謝

たくさんのありがとうが咲いていた。


淡々とした業務日誌は感情論だけのエモーショナルなノートになった。

みんな泣きじゃくっていた。


終わる癖にめっちゃエモいとか、なんとも皮肉な話である。

 


あれからコロナが来た。

約半年後の今、思う。

「終わる」お店はこれからも増えるはずだ。

現になお、進行形で飲食店の未来は決して明るくない。

多くのお店は死ぬだろう。その判断や選択自体に間違えはないはずだろうとも思う。


ただひとつ、陳腐な言い方かもしれないが、そこには「ひと」が「思い出」が「想い」がある。

そしてその終わらせ方に正解や模範解答なぞありはしないということだ。


僕はあのお店とちゃんと死んだことを誇りに思っている。

僕の中ではベストの死だったからだ。

でも僕自身が死んだりはしない。

これからも地を這いつくばり、ハングリーに、クリエイティブに、生きていかなければならない。


残ったのはほんの少しの人の輪くらい。

そんなもんかもしれないし、それで充分なようでもある。

ことさら、大事にしていこうと思えるのだ。

今と人を。

 


そんな些末な感情に駆られながら

お暇を頂き、名古屋へ。

 


9回表に登板した、3ヶ月だけの店長を

温かく招いてくれた愛する仲間たちの主催だ。


僕にとってそれは

とても有意義な

「ただの飲み会」であった。