祈りとは心の所作
葬儀社に勤めて半年が経った。
このたびすごく良い仕事のタイミングなので、書き記しておく。
僕はおよそ10年以上に渡る焼鳥屋、飲食事業を卒業し、今年の春から全く異業種である葬儀屋で勤めることとなった。
主観的な話になるが、結論から言うと葬儀屋は飲食に引けを取らないしんどさであった。
人はいつ死ぬか分からないというのは本当で、12時間働いた後でも問答無用で電話が鳴り、施設や病院等にお迎えに行く。
それはまるでラストオーダーのない居酒屋に近いものがある。
お迎えだけに行くならまだ良い。
それから然るべき会館や寺、式場、ご自宅等にご安置し、枕飾り(線香をあげられるよう準備)をする。
担当に引き継ぎを済ませ、祭壇や相応の仏具の搬入、設営。宗派に合わせた道具や本尊の用意、必要とあればご遺体の処置、湯灌そしてご納棺。
通夜ぶるまいの料理の発注や供花の注文、出棺車両や会葬者の人数の確認、受付や椅子を並べ、お寺さんへの連絡、供養品の用意、寺によっては幕張(あの天井からびろびろーんとなってる白布)をする。
通夜までだけでもざっとこれだけの仕事があり、式当日や骨揚げ後にも様々な仕事があり、1件の葬儀の仕事が終わる。
家族や故人さん、葬儀も家族ひとつずつあるように、最期の形は全て違う。
こんなペーペーな僕でもこれまでたくさんのお別れに立ち会った。
誰にも見送られず、財布に100万入れてたおっちゃん。山の上で静かに亡くなってた。
葬儀代金を引いた額は県に預けられた。使ってから逝きたかったよな。
95歳のおばあちゃんが96歳の故人さん(旦那)に書いた手紙。蓋を閉める最後まで照れてなかなか渡してくれなかった。
「これが最初で最後のラブレターや」と一言。
どこまでもツンデレだった。
生後10ヶ月の赤ちゃんの葬儀。蓋を閉めた直後にお父さんは膝から崩れ落ちてわんわん泣いた。お母さんは虚空を見つめ終始呆然としていた。お母さんは末期ガンだった。
その2週間後にお母さんも逝ってしまった。お子さんが何人かいらっしゃったが、下の子はまだ死という概念すら理解していない年齢で、いつも通りお母さんに話しかけていた。かなりどぎつい部類。
段々、いろいろな経験をしていくと、往々にして人間は慣れてしまう。
それが高尚で高飛車な言い方をすると、僕の人間性や価値観や慈愛といったなにかが、音をたてて崩壊、欠落していく様が、ありありと分かり、これは人間として正しいのかどうか。という問いに行き着いてしまう。
そんなしょうもないとは言わないまでも、僕はペーペーのパンピーである為、そんなことで悩んでしまう日もたまにある。
自分の中の奥のなにかは燃えるように熱いのに、ある時はまるで機械のように冷たくなって、沈むように感情が消えて故人さんの鼻や口に綿花を突っ込み、葬送する。
ある日ご自宅にいつものようにお迎えに行った。気づいたら故人さんとご対面した際、手も合わせない自分がいた。
自分が自分じゃないような。そんな違和感だけは持ってはいけないと痛感する日もあった。
努力して勉強して練習して、毎日誰よりも早く職場に来た。
考えもせず、無意識だった。
それぐらいどうやら僕と葬儀屋はウマが合うらしかった。
僕の会社の場合は大体、入社後およそ2年程で、正式な社員雇用となる。
キャストスタッフという名前から社員へとクラスチェンジするのだ。派遣社員→正社員みたいなものである。
その大きな要因の一つにあるのは「覚えること」が膨大な量であるためであった。
このたび僕は会社史上最速で社員にさせて頂く運びとなった。
時代の潮流もあるだろうが、創業90年の中の最速はやはりちょっと嬉しいものがある。
焼鳥屋で培った社交性と演技力、なにより根性の賜物であると信じてやまない。
飲食時代、ヤカラのお客さんに土下座したあの日の夜の苦虫を噛み潰したような想いは、僕の中でなにも無駄じゃなかったってことだ。
そんな僕は今月から大学病院のほうで勤務することとなった。
全国5ヶ所の政令指定都市で施行されている「監察医制度」のもと、神戸大学医学部勤務というお面を被った常駐の葬儀屋で、会社の代表として1年間の出向を命じられた。
ウチの葬儀社では葬儀業界の花形である営業部への登竜門のような、葬儀の担当を任す前段階のようなそういった位置づけの業務であり、葬儀社に駆け込んでくるお客さんの応対のソレや業務の内容は全く異質で違うものであった。
つまりは、
刺し箇所が18コある殺人事件の悲壮感漂う人や、JRへの電車アタックで体が寄生獣みたいになっちゃった故人さんやら、孤独死の末、発見が遅れ、身体からイソギンチャク(ウジ)が跳ね回り、ファインディング・ニモしたくなるような人まで。
突然じゃない死などないが、その中でもまさに「まさか死ぬなんて」と思われていた方々を相手にしなければならない。
刑事と帯同し、病院や現場で呆然とした家族さんのもとへ「チワ〜、実は葬儀屋でーす」と行かなければならない。
サザエさん家の裏口に行くノリでは決してなく、並のメンタルでは務まらないことは確かだ。
私事ではあるが、この度、先週の水曜日に祖父を亡くした。
両親が離婚をして、別れた親父の方の祖父なので、何年も会っていないし、家は佐賀県の奥、唐津という場所で神戸市からはかなり遠く、親父の方にも家庭があるので、頻繁に顔を合わすこともなかった祖父。
それでも小さい頃は足繁く遊びに行き、いつも面倒を見てくれた優しいおじいちゃんであった。
一報を聞き、駆けつけた。
「わざわざありがとうな」
久しぶりに会う実父は白髪がかなり増えて、急なことで疲弊した様子だった。
照れながらに会釈する腹違いの兄妹、従妹たち。
その奥の和室におじいちゃんはいた。
祖父は入浴中に亡くなったとのことだった。
冬の季節、高齢者には多いケースだ。
今僕がまさに病院でしている業務の範疇で、既視感がバッと、フラッシュした。
手を合わせ、会社から好きに持っていけと言われた仏衣や脚絆、手甲や足袋をおじいちゃんに着せた。
おばあちゃんはキョトンとしていた。まさか焼鳥を焼いているはずの孫が葬儀屋になっていて、着せつけをしていることもあるやもしれないが、それよりもなによりもとても喜んでくれた。
軽く食事をし、帰ろうとした時、おばあちゃんがおじいちゃんのボロボロの免許証ケースを持ってきてくれた。
祖父はトラック野郎だったが亡くなる数年前に免許を返納していた。それでも大事なもので肌身離さず持っていたそうだ。
「へー免許って返納したら証明証をくれるんだねー」とのたまっていたら
おばあちゃんが「裏見てみ」と
免許証ケースの裏には1枚の写真が挟まれていた。
家の玄関か門の前で、仁王立ちする5歳ほどのブレザーを着たフェアリーな男の子の写真だった。
それは幼き日の僕だった。
おじいちゃんには僕も含めると孫が4人もいる。
ただ、おじいちゃんの免許ケースの中には僕のピン写しかなかったというから、なんともいたたまれず、後悔の念が湧きまくった。
なんでもっと会いに行かなかったんだろう。
これが遺族の気持ちか。
帰路、この仕事をしていて、良かったのかな。と刹那考えた。
そんなことを思えるほど僕には経験が浅く、まだまだ半人前なのだが、おじいちゃんの最後のお召し物を誂えることができて、微々たる贖罪の水を空っぽに近いグラスに少しは注げたのかな。
なんにせよ分からないが、祖父の為にも心身共に健康で。
この道を進むしかないニャ〜。。。
気づけばどっぷりと日が暮れて、玄界灘の冷たい風が頬を差した。
気温は寒かったと思うが、それどころじゃなかった。
僕は口いっぱいに広がる、20年振りに食べたおばあちゃんの大根の漬物の残り香を「こんな味だったっけな」と思い出と検算しながら、思索に耽っていたからだ。