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うさぎのカタルシス

葬儀屋さん

オーロラについて

2007年、僕はZepp Osakaにて、特に好きでも嫌いでもなかったNICO Touches the Wallsというバンドのライブを観ていた。


アニメ鋼の錬金術師でお馴染みの「ホログラム」が有名で、去る2019年バンドは活動休止してしまったらしい。

当時はイケイケの若手という具合に大規模プロモーションやら多くのフェスに参加していたのだが、鼻持ちならない容姿(メンバーみんなほぼイケメン)やファン層のほとんどはJKやJDで構成されていた為、古き良きブリティッシュロックのリスナーであった僕はなんとな〜く気に入らなかった節はあった。

今でいうところの[ALEXANDROS]的なもんである。ワタっとけ。


それでもこの頃の僕は大好きな音楽に拍車がかかっていた頃で、キューバ民謡からフレンチポップス、果ては北欧のV系までチェックするほどのめり込んでいた。

聴かず嫌いはしない。相手をディスる時はアルバムを聴き込んで「うん!それでも嫌いだ!」と材料を用意し、意見するようにしていた。

2000~4000円程のチケットで観れるバンドが至高という謎のロジックもあり、若手筆頭であった先のライブを拝見しに行った次第であった。


NICO Touches the Wallsはこの度、高名な亀田誠治師匠がプロデューサーとなり完成したアルバム「オーロラ」の表題「オーロラツアー」の一環で大阪へ来ていた。

やはり生音は音源の10万倍良い。人気曲を一通り演奏した後、イケメンボーカル光村龍哉氏がMCで急にこう言った。


「俺らが今回作ったアルバムは"オーロラ"ていうんだけど...この中でオーロラ見たことある人はいる??居たら手を上げてほしいんだけど」

 

 


会場は静謐とした空気に覆われた。

 

 


「そっか。。やっぱ、だれもいないよね...。でもみんなの見えないエネルギーが虹みたいになって、こう、なんとゆうかオーロラを作ってるように俺には見えるよ」

 

 


なんのこっちゃ。


オーロラはそんなもんじゃない。


僕は後悔していた。


恥ずかしくて手を挙げられなかった。


そう、僕はオーロラを見たことがあったからだ。

 

 

 

僕はフィンランドに行ったことがある。


ある日、母親から「旅行に行こう」と言われた。

母も父もとても旅好きな人で、記憶がない頃からよく海外旅行には連れていってもらえた。


「あんたの旅費に合計いくらかかったと思ってるの」帰省し、旅先の話が出るたびに、こんなことを母親からは揶揄されるが「子どもを置いて旅行には行けねーだろーよ」と毎度論破するようにはしている。


フィンランドは当時、日本からスイスで経由し15時間ほどかかった。

首都のロバニエミ、第2都市ヘルシンキを廻るプランだ。

マザーはいつもツアーを嫌がった。

巡るところは自分で決めたかったのか、食料はスーパーで買い、ホテルで調理という強者ぶりを見せつけていた。


フィンランド人はサウナが好きらしく、自宅にもホテルにもサウナが設置されており、マザーはスーパーで買ったトナカイの肉や見たことのない野菜をサウナの上で調理していた。


ジュ〜と焼き石の上で白い湯気をあげ、ホテルの一室で食べたトナカイの肉の味は不鮮明だが、非日常と日常が混濁する旅の質はとても素晴らしかったことは覚えている。


夜を知らないノスタルジックな白夜の奇妙。

4枚程重ね着をしてもインストラクターに「凍え死ぬぞ」と言われダウンを借りた犬ぞり

氷を砕く舟「砕氷船」に乗りたどり着いた北極点。

パキパキに凍った鼻毛や、三重扉の住居。


ちなみに両親は共に電力会社に勤めている。

ヨーロッパ特有の変圧器や地中に埋まった配電の仕組みを街中で論じていた。

客観的にも変な家族だ。


思い出はたくさんあるが、オーロラには計画性もクソもない。ただの自然現象の運ゲーである。

「運が良かったら見れるかもね」現地の人も口を揃えて言った。

1週間ほどの滞在で見れるかどうかは「ヒキ」次第なのだ。

旅の終盤、僕ら家族は世界中のサンタの総本山へ向かった。フィンランドは何を隠そう、ムーミンとサンタ発祥の地である。

金剛峯寺」や「西本願寺」などのイカつい名前ではなく、ファンタジー要素満載その名も「サンタ村」

そんなファンシーな冠に似つかわしくなく、郵便局の本社のような位置づけで、そこで世界各国から届いたプレゼントの仕分けを行い、リクルートよろしく各国のサンタはそこへ派遣された人材であるというなかなか設定がリアル。

奥の部屋にいる大ボスのサンタはまさに漫画に出てくる容姿で、赤服に身を包み、長い白髭をたくわえ、子供を連れた観光客の長い行列からチェキ1枚1800円という地下アイドルより法外な囲いを行っていた。


そんな蛮行ともとれる現実を11歳の僕は拒否し、母親が勧めるなか、あんな守銭奴とは撮りたくないと断固としてフォトストライキを起こした。


サンタ村でサンタの歴史やら絵画、絵葉書などを見たのち、帰路につこうとなった。

出口付近には大勢の子どもたちがたむろしていた。


そこには雪氷で形成された「サンタの滑り台」があった。

雪まつりのようなアレである。


入場料などない。乗り場もないが、世界各国から訪れた子どもたちが20人ほどの列をなして順番に滑って遊んでいた。


「アレに乗りたい」

 


気づけば僕は列に並んでいた。

僕の前には白人の男の子がいた。

後ろには黒人の男の子がいた。

オセロのように挟まれてイエローな僕と一緒に順番を待っていた。

黒人の子が「まだかな!」と興奮した様子で僕に話しかけてきた。

僕は「ねー」と返した。

前の白人の子はそれを見て優しく微笑んだ。


僕らは仲良く3人で滑降したのだった。


その出来事が僕のフィンランドのハイライトになった。

 

 

その帰りに驚くべきことが起きた。

 

 

不意に空を見上げると、満点の空のカーテンがかかっていた。

雲にしては明るく、淡く光を帯びていた。そしてその雲のようなモノは動物のように蠢き、西の空では一際輝いていた。

 


「あれがオーロラかあ」

 


飛び跳ねるほど美しく綺麗だった。

旅が終わるキワキワでヒけたのは、とても感慨深かった。


「オーロラを見たことがある」という人生を手に入れたが、それを自慢したことはない。

不意なMCに臆して手を挙げられなかった要因のひとつがそれだった。

 

オーロラは綺麗だ。ただ、それだけのもんだった。

 


両親からはバカにされ溜息まじりに「ほんと何十万もしたのにいちばんの思い出はすべりだいかよ」と言われるが、僕は全く恥じてない。


彼らにも同じように思い出として残っているだろうか。

一緒に並んだあの子たちは僕と同い年くらいだとして、今30そこらでうまくいけば世界のどこかで同じように暮らしてる。正しく怖がってマスクして、晩メシの支度でもしているかもしれない。

名前も知らず、人種も違う彼らとあの日僕は一緒に遊んだ。


僕にとってキラキラしていたのは西の空にたなびいたカーテンではなかったのだ。


見聞した僕だからこそ、安易なオーロラ論は通じないし、ディスる権利がある。

聴かず嫌いはしない。


その意味であのMCは正しかったのだ。


オーロラを見に行って、オーロラを見たが、それより綺麗なものがあった。ただそれだけのもんを得られるから旅は素敵なんだと思う。


その美しさを分け与えられるような男になれるよう努力を。

ライブやフェスができる世界情勢になるように安心を。


子どもを笑顔にして溜め込んだ金を世界中へ配るため、あの奥の部屋にいるサンタの元締が重い腰をあげてくれるよう

西の空へ想いを馳せる時分である。

 

アシタカってそういう人

 


一生に一度は映画館でジブリを。

 


もののけ姫を観てきた。

サブスクの配信を一切行っていないのがジブリブランディング力であろうか。

初めて観たのは小学生の齢。

まだイオンが「ジャスコ」と呼ばれていた時代だった。何度か金曜ロードショーでやってたのも覚えている。10代の頃視聴したきりってとこだ。


映画館の雰囲気も久しぶりに味わいたく、ひとりレイトショーはなにか自分をオトナな気分にさせるもので気分が高揚する。


しかしそんなオトナである33歳は開始10分で号泣する羽目になった。


あれ?こんなに泣ける映画であっただろうか?

昔は「アシタカ△」「黙れ小僧草www」なんて感想を抱いていたのが嘘かのように、中年への階段を登っている僕にとっては、モロや乙事主の苦悩やエボシの心情。果てはアシタカが住む村の占い婆さんにまで大人の欺瞞と言い知れぬ事情を汲むに憚らない。


オタクの神、オタキングこと岡田斗司夫さんの考察も交えて伝えたいと思う。

 


衝撃①

犬神モロと猪神乙事主は元恋人同士

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考察もクソもない。

もののけ姫のドキュメンタリーにおいて語られる作中で触れられることのなかった設定のひとつだ。

モロのCVはお馴染み美輪明宏さん。

散々男子が真似をするあのセリフだ。

「乙事主か少しは話の分かるやつが来た」

この演技をしている最中の映像がある。

なかなかOKサインを出さないパヤオ監督。

美輪さんの元へ向かい「この2人、実は昔は"いい関係"だったんですよ」と説明。

美輪さんは「えぇ!狼と猪がぁ?!」と驚きながらも、テイクを重ねるにつれその犬神の声が艶っぽく色気を増していくのだ。


祟り神と化し、ダメになっていく元カレを思いつつも、なによりこんな人(猪)に恋をした自分自身を憐れむかのような演技は、なんとも感嘆するに禁じえない。

こんな公式資料にも載っていない設定を表沙汰にしないのがジブリアニメの真骨頂である。

 

 

衝撃②

アシタカはサンと濃厚接触

 


はっきり言おう。アシタカはサンと関係を持っていた。

信じられなかった。しかも作中でだ。

まず前述の通り、宮崎駿という監督、アニメーターは描く必要がないものを描かないという人間である。

 


スタジオジブリのプロデューサー鈴木敏夫氏がラジオで暴露したのだ。

犬神モロの拠点でアシタカとサンが起きるシーン

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当時絵コンテを見た鈴木氏はピーンときて宮崎駿監督に質問した。

「このふたり、アレしてますよね!?」

いつも否定も肯定も必ずする宮崎監督がダンマリしたのだ。

さらに問い詰めると

「そんなもん見れば分かるでしょう!」と恥ずかしそうに声を荒らげた有名なエピソードがある。

アシタカさん...パねぇ。。

しかし衝撃はさらに続く。

 


衝撃③

アシタカはカヤともヤっていた

 


カヤについてタイトルコールの「もののけ姫」とスクリーンいっぱいに荘厳な音楽と共に映しだされる画がある。

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おお、いよいよ始まるのか!と騙されてはいけない。

ここで注目すべきは後ろの模様にある。

なんの模様か、しかし見覚えがある。

そう。これは縄文土器に描かれた模様。

もののけ姫」のタイトルは当初「アシタカ聶記(せっき)」アシタカ伝説となるはずが、プロデューサーのゴリ押しにより「もののけ姫」というタイトルで上映されることになったそうな。


もののけ姫の舞台は室町時代。そもそも縄文文化なぞ残ってはいないはず。だが、彼らは大和朝廷に追いやられたと台詞を吐き、いまでいう東北の村で生活をし、鉄も髷を切る程度のものしかなく、青銅文化が色濃く残る縄文人の生き残りのような存在だ。

事実、ヒイ様という国の呪術師的な社には御神体縄文土器も残っている。

 


↑の画像のタイトルコールの模様、あれはこれから起きるアシタカが起こした伝説が伝聞し、アシタカの子孫によってあの村で作られたもので、宮崎駿監督のささやかな抵抗である。

「これはアシタカの物語」だと主張しているのだ。

 


何故かというと、あの模様をなぞると1つ目の化け物のような形になるのが分かる。

シシガミ(デイダラボッチ)のフォルムに、1つ目。

 


当時は鉄を作るのに膨大な木と火が必要であった。鉄鋼部や採掘師は必ずと言っていいほど、片目を失ったそうである。同時に1つ目の化け物は日本各地で伝承がある。

しかしその伝承の近くには大概鉄を打つ施設や場所があったそうな。


そう、タタラ場である。


「1つ目のアシタカがタタラ場でデイダラボッチを従える」


これを暗に示しているのだ。

 

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カヤ自身がアシタカのフィアンセというのは有名な話だ。

このカヤのセリフに対し、アシタカは「私もだ、いつもカヤを想おう」と翡翠の玉刀を受け取る。


これがなにを意味するか。現代を生きる我々には理解し難いのだが、この世界の部族の文化において、夜中に男女が密会をするとは「そういうこと」なのだ。これは「貞操」を誓っているのである。

「あんた以外の男と付き合いません」と言っているのだ。

まして、彼女は旅に連れて行ってくれとも言わなければ、今生の別れであるにも関わらずあっさりしている。

 


思い出して頂きたい。どういう監督が手がけた作品であるか。描く部分は描くが表現をしたくない。そう、この時既にカヤの中には命が育くまれている。それがタイトルコールの土器へと繋がるのだ。

 


ざっと衝撃を挙げ連ねるだけでこんなにも。

映画や本は観るコンディションや年齢によって感想が異なるのだなと感じた次第だった。

色恋沙汰な内容が多かった気がするが、他の気づいた点だってまだたくさんある。

字数が半端なくなってしまうため割愛させて頂く。


まして物語がアシタカ視点で描かれてる故、子供の時分では気づけなかったセリフや意味、他キャラクターの思惑まで伝わるような感覚がした。


みなさんもこの機に是非おすすめしたい。

ましてこんな便利な時代だ。

家族や恋人、友人が揃って、作品を共有、共感し合う場はどんどん少なくなっている様に思う。

意味なんかなくてもいい。

そこで共鳴した思い出や想いはきっと人生を豊かにするものと僕は漫画や音楽でさえ信じている。

 


「一生に一度は映画館でジブリを」

 

 

 

カリスマの正体

 

「俺にはまだまだ店長としてのカリスマ性が足りないんですか」


そう言って項垂れたのは僕と同じ会社に勤める後輩社員だった。


以前からぼーっとしたり、緊張感が抜けることはたびたびあれど、持ち前の愛想と笑顔、憎めない愛されキャラなところがあり、このたび店舗の責任者、つまり「店長」を任じられた若手社員のひとりだ。


僕は今ざっくり言うと、さまざまな飲食店舗におけるデリバリーの受注を増やせるように企業や法人へ営業活動をしている営業マンだ。

焼鳥屋としての僕は最近なりを潜め、彼からシフトがどーしても足りない時に店舗への出勤を要請され週末たまに焼鳥おじさんをしている次第。


店舗はというと、席数は当然満席率60%に抑えている。このご時世だ。やんごとなき事情ではあれどコロナ以前のような活気に戻るのはなかなか難しいだろう。

有難いことにその60%は週末ともなれば自然と埋まっていく。お店の生ビールや焼鳥はやはり美味しいし、恋しいのであろう。

店舗では足りない売上を補填する為にテイクアウト、デリバリー事業を並行して行っている。


そんな中の金曜日、ある母娘からのテイクアウトのご注文をいただいた。焼鳥10本の盛り合わせと鶏の唐揚げ。

娘さんは小学校高学年といったところか、お手製のマスクは可愛い柄で作られていて、興味津々と店内の焼酎じいさんの群れや、若者たちの甲高いトークを眺めていた。


きっと2人の帰りを父親が待っているのかもしれない。

お母さんは仕事帰りのようだし、毎日スーパーへ寄って、家で食事の用意をするのも辟易としているだろうな。

家にはトイプードルがいるかもしれない。


僕はお手製の妄想とそのストーリーを暴走させていると、急にその家族のことが愛らしく感じられてきた。

焼鳥が焼き上がるとアルバイトにひとこと添えた「5本くらいサービスしといたから。あいつ(店長)からって言ってあげて」


お母さんに商品を渡し、会計をする。

アルバイトが「店長からです」とサービスの内容を伝える。

「へへ、いいことしたぜ」そんなナルシズムに陶酔していると、視線を感じ顔を上げる。

お母さんは僕の方を見て「ありがとうございます〜」と満面の笑みで仰った。

鳩が豆鉄砲を食らった顔をした僕は「え!?あっ、ありがとうございます〜!」


お見送りをした後、レジの前で店長の彼が言ったセリフが先の「俺にはまだまだカリスマ性が足りないのか」というものであった。


つまりあの母娘は僕をどうやら店長と認識したものであったらしい。


「そんなことないよ!足りないのは知性と緊張感!」と言ったら息を引き取ったかもしれないのでぐっと我慢した。

 

 

僕にとって「カリスマ性が無い」という問題についてはなにか懐かしくもあり、恥ずかしさも介在していた一言であった。


そう僕も23歳頃、彼と同じ質問をグループの創業者にぶつけていた。

 

僕は創業者(会長)のことを親しみを込めて「大将」と今でも呼んでいる。

ベスト・オブ・ビッグ・ボスだ。


当時、アルバイトやお客さんからも舐められ、思うように仕事が捗らず、数字も伸びない。やることなすこと上手くいかない気がしていたのだ。

それをひたすら自分の若さやカリスマ性の所為にした。


「大将、どうやったらカリスマ性がつきますか?」

仕事の電話でのことだった。

純粋な気持ちからきた質問だった。

それぐらい自分のスケールだけにこだわっていた。


すると大将は電話口でケラケラと笑った。

 


「可愛いなーおまえしょうもないぞ」

 


何故だか分からなかった。

自分にカリスマ性がつけば、カリスマの成り方さえ分かれば上手くいくはずなんだと盲信していたからだ。


大将は続けてこう言った

 

「カリスマ性はなー....そんなもんな。ないぞ。やった奴だけがそう言われるだけやねん」


僕は虚をつかれた思いをした。

じゃまたな〜と軽快な声で大将は電話を切った。


そう、僕は誤解をしていたと気づいたのはその時だった。

カリスマ性があるやつが成功をし、人望に恵まれ、うまくいくものと。


つい1週間前、リオネル・メッシが通算700得点を記録したらしい。

守備やシステムが確立された現代フットボールの歴史では未曾有の、前人未到の記録を彼は塗り替え続けている。

すごいことだ。

 


つまりは「カリスマ性」の正体とはそれのみである。

 


周りが勝手に付随し、言うだけなのだ。

結果が出た人だけを対象に。

 

僕はそれからラクになった。

背伸びをする必要もない。無理をしなくていい。

ワリカンしたっていいじゃないか。

あれだけ欲しかったカリスマを捨てた。というより初めからそんなものは無かったのだ。


あれから10年。

まさか自分が同じことを聞くとは思わなかった。


先の母娘の件でいえば、強いて言うならその日僕は店でいちばん声を出していた。おそらくそんなもんだけなのだ。


店長は僕が大将に教えを乞いた日と同じ23歳だ。

彼がこの先、カリスマ性の正体を暴き、真の意味でカリスマを伴って生きていくことを僕は応援するし、願ってやまない。


そんな金曜日、そんなことを思い出して彼を愛おしく感じた。

しかしその刹那彼はアルバイトに信じられない一言を口走った。

 

 

 

「おれも老けたいわ〜」

 

 

 


大将、カリスマ性ってどうやったらつきますか?

 

風車の廻し方

コロナ以前、アフターコロナ、そんな言葉が闊歩する数年前のある夏に僕は限界を超えた。


2015年、誰がこの後未曾有のウィルスにより、リーマン以来、世界恐慌クラスの経済が待っていると思ったか。

飲食マンの僕らの会社はノリにノっていた。

売上及び利益率の右肩上がりのグラフを見つめ毎日のようにニヤニヤしていたのを覚えている。


深夜帯ともなれば、店舗間で店長たちによる私用電話ともとれる「ウチはこれだけ売ったぞ!」「人件費はここまで絞れた」「明日は負けねーぞ!」といった連絡が日々行われていており、まさに組織としてひとつの完成形。良い循環のシステムが図らずとも構築されていた。


今考えると、PDCAサイクルのクソもない。

調子に乗るだけ乗った時代の波を僕らは浮かれて泳いでいたのである。


そんな中決まった社員旅行は沖縄だった。


それ以前の社員旅行といえば毎度毎度本社近くの観光地やリゾート地へ。

海岸へ行き、バーベキューをしながら、前日の深夜4時まで働いたゾンビ面の者共が眠りもせず真夏の太陽の下で今にも成仏させられんかの如く欠伸を放つ。


ともすればまさに地獄絵図のような光景だったのだが、その年は収益も良く、本場の海岸。楽園である沖縄への2泊3日が決まったのだ。


沖縄といえば、日本とはいえ、ほぼ異文化だ。

文化にしても食材にしても僕らが住む「本土」と呼ばれる地域のそれとは一線を画す。

日本国内とは思えぬ美しいビーチに壮観な米軍基地の戦闘機の数々。

風に揺れるサトウキビ畑やジューシーな南国産の果物。

角煮とはいわないラフテーに薬味の効いたソーキそば。


聞いた話では地元の女性の7割は水商売で働く(らしい)

キャバクラやガールズバー、スナックにそれ以上のむふふ。だって当然。。。


若手社員たちのテンションは出発口である神戸空港の時点で高まる夜への期待を隠しきれていなかった。

彼らは「くさったしたい」から「わらいぶくろ」へ華麗なるジョブチェンジを果たしていたのだ。


去年まで蔓延っていたゾンビたちはどうやら掃討されたのか、ダーマ神殿がまさか神戸の地にあったことに僕はほっと胸を撫で下ろした。


僕には2人の上司、マイボスがいる。

1人は優しくて独創性に富んだお兄ちゃん。社長。実はサイコパス

もう1人は矢面に立ち、闘い方を教えてくれた兄貴。統括。BLINK182のようなタトゥーが印象的。


このぶっ飛んだ2人に僕は原子レベルまで影響を受けている。

人との会話から社会の処世術まで同じように20代を共にし、辛酸も栄光の味も舐め合った2人とも兄のような存在だ。


そんな2人と同僚たち、可愛い後半社員たちとまさか飛行機に乗って旅行に行くなんて、まさに夢のような出来事になる。はずだった。

 

 

「全員墓場まで持っていこう」

 


そう仰ったのはマイボス、偉大なる社長であった。


若手社員たちは歓喜していた。


沖縄旅行最後の夜のことだった。


僕は変わらずに、沖縄を謳歌していた。

泡盛を飲みハブ酒を飲みキャバクラに行き免税店にも行けた。

そうみんなで最後に行こうとなったのは「おっ〇いパブ」だったのである。


僕にとっては初めてのおっパブデビュー。

ライブハウスのように薄暗い階段を降りてく最中、後ろから聞こえるおっ〇いコール。

仕事中では見せることのない後輩社員たちの笑顔と元気。彼らのことをこれからは敬意を込めて「さん」付けしようと固く心に誓った。


おっパブではまるで回転寿司のように胸もとを露にした女性がかわるがわる僕の膝の上に乗ってきた。歌いながらやって来るなり胸部を押し付ける場馴れした女性から、暗がりの照明の中でさえはやく帰りたがってるのが伝わる女性まで、様々なオッパーが目まぐるしいスピードでそのEDMのテンポのように僕の眼前を駆け巡った。


そんな中、場内のステージにスポットが当たった。さきほどの場馴れした女性。おそらく店長かなにかかな。注目はそこへ集まった。

「ただいまより、ショーをはじめます~!」


ショー??

一体なにが始まるんだと思いきや信じられないひとことを口走った。

「いまからぁ、この〇〇と〇〇を結んで、ひとつは女の子の〇〇もうひとつはお客様の〇〇につっこんで綱引きをしますー!!」

明朗な声で彼女は言った。


つまり性玩具を結びつけ合い、長いロープにして、ひとつは女性器に、もうひとつを男性の肛門にインして綱引きをするというアタマの悪く最高に面白いショーの内容だった。


だが僕はというと暗い店内のカウチソファの隅で座敷わらしと化し、戦々恐々としていた。


なぜかというと、彼女はあきらかに僕のほうを指さして、僕の目をしっかりと曇りなき眼で見つめ、そのルール一部始終一切を丁寧に説明してくれたからだ。

 

 


「いやだ!!!!!」

 

 


逃げ出そうにも遅かった。

気がつけば大勢の同僚たちが僕の背中に乗り、羽交い締めにされた挙句、僕はパンツを脱がされていた。

沖縄の性犯罪は社会問題である。


暗がりでも奴らの顔は鮮明に思い出せる。

いつかラストオブアス2のようにゴルフクラブで身体中タコ殴りにして復讐してやる。

そんなことを思いながらも抵抗を続けていると、司会者であるオッパー店長が近づき僕に囁いた。

 


「あんまり暴れるとほんとに痛いですよ」

 


その声は戦場に舞い降りたジャンヌ・ダルクかのように優しく僕を慈しみ、観念させるのには充分な気迫を孕んでいた。


僕は今までおしりにはお母さんが小さい頃に入れてくれた座薬しか経験がなかった。

その時も高熱を出したが痛烈に痛かったのを覚えている。そんなもんムリに決まっている。

 


しかし2015年の夏、沖縄、

僕はあっさり限界を超えた。

超えちゃったのだ。

 


ヨツンヴァインになり極太の〇〇をおしりに入れ、あげく綱引きに負けてしまったのがさらに情けなさを煽った。


おっパブから宿までの帰路

「すごかったすよ!」「尊敬します」

生まれたてのバンビのようにひょこひょこ歩きながら、落ち込む僕をフォローしてくれた優しい後輩たちの目は泳いでいた。

さっきまで笑っていたのが嘘のようにその目はゾンビかの如く死んでいた。

こんな優しい後輩たちを持って感謝以外ありえなかった。すぐにでも成仏していただきたいものだ。


翌年の社員旅行もまた沖縄であった。

 

その年も「(僕の名前)のアレが見たいな」となった。

同じおっパブへ行き、なんと僕は2016年にはM字開脚から尻穴に風車を差して方角を確認する術を学んだ。


言い出しっぺは苦楽を共にし、「ほんとうの弟のように思っている」と言ってくれたサイコなお兄ちゃんだった。


2015年はおしりに入れられるだけでもキツかったのに。今はウソのように平気なもんだ。

ん?あれ。そういえばあの時、オッパー店長にチップを渡してショーをするように言ってくれた人がいたな。僕は去年確かに見た。暗がりの中で2000円を店長に渡し僕の方を指さしてくれた兄貴。

腕に彫られたピエロのタトゥーがブルーライトにキラキラと照らされ不気味な笑みを浮かべていた。


ほんとうに感謝以外ありえない。

 

しかしそんなことさえどうだっていいのだ。


あれから5年が経ち、僕は今限界なぞないのだなと改めて痛感している。

ラインなんか超えちゃえばそこにはまた新しいラインが生まれるだけだ。


オシリを出した僕の1等賞は今でも僕を突き動かす原動力のひとつになっている。

もし社員査定があればあの時嘲笑したやつ皆の役職を1等級にするよう進言する準備は出来ているのだ。


「限界を超えろ」なんて古臭いブラック企業大賞みたいなことを言うつもりはない。

ほんとうに限界を超えて命を落とした方だっているからだ。

だから「限界」についてよく考える必要がある。ほんとうの限界マンか。それともいつからか「限界」が限界水域を浅くして「ムリ」や「無駄」という言葉に還元されて”なにもせずに”限界を迎えた「保身」マシーンになってないか??

それは限界とは呼べないナニカだと僕は思うし、このコロナの時代を会社に勤める社会人として生きるのなら、毎日生まれ変わる覚悟で臨むほうが精神衛生上ちょうどよくさえあると思うよ。

 

沖縄に行けば分かる。

そこに吹く風が教えてくれた。

廻れ風車。

「限界」はだいたい大したことない。

いやほんとに。

オヤジは知らないジジイの夢を見るか

なんという暑さだろうか。

重たくのしかかった曇天のもと、とてつもない湿気が僕のパンツ及び股間を集中豪雨してくる。


小学生の時に日本は温暖湿潤気候と教わったはずだが、あれはもう今の小学生たちには、亜熱帯と教えるほうが乖離が少なく済むだろう。

 

九州で降る大雨に重ねてそこにいる僕の家族のことを思い出す。


7歳ほどだったか、僕の両親は果てなき戦争の末、離婚した。夜は隠れてよく泣いた。

法廷には行ってない。あくまで協議離婚。


理由はどちらに落ち度があるわけではなく、母親から父親への三行半。

25歳くらいの時に聞いたのか離婚の理由は

「このまま一緒にいても自分は成長しないから」

まさにグラディエーターのような母である。つっよー。

 

1997年


母に彼氏ができた。

当時僕は小学校高学年。

あたたかい母子家庭と何処までも続く田園風景と蛙の匂いの中、そこに群生した葦のように伸び伸びと育っていた。


500坪ほどの広大な土地と、祖父の代から続く古びた一軒家。死んだ祖父が残した財産だ。そんな場所に幼い子どもひとりが夜遅くまでひとりきり。

今考えたら狂気の沙汰である。


ある日曜日、母親は彼氏をそこへ連れてきた。


母親は当時彼氏(今の僕の義父)と毎週末のように逢瀬を重ねていた。

「母ちゃんには母ちゃんの第2の人生があるわよ」と叔母からは言われたが、神童と持て囃されるほど賢かったとはいえ、いち小学生にそんな大人の事情や都合などうまく咀嚼できるわけがない。


知らない男の人が家にいる。

それだけでなんとな〜く家に居づらかった僕は愛チャリであるブラックエンペラー号に跨り、9割が田園で構成された田舎町を、行くあてもなくサイクリングしていた。

茶店からはGLAYのHOWEVERが親の仇のように流れていて、まるで世界から自分だけ切り離されたような感覚に陥った。

愛などクソ喰らえ。

パンクキッズ爆誕の瞬間である。


かくいう義父はとても優しくて、面白い人だった。母とは職場恋愛だった。

職場での異名は「変人」

こだわりは強いが、穏やかな自己中。

笑顔は柔和で、論理的に話ができる大人だった。


なにより義父は僕に必要以上に気に入られよう、取り入ろうとすることはなく、我が道を行くタイプだった。

その距離感が絶妙で、僕は刺激されることもなく、過干渉されることもない。

だが当時のおマセさんなガキには得体の知れぬ不可解なものに映っていたのかもしれない。


中学に入る時には、駅前の新築マンションに移り住んだ。3人の新しい生活が始まったのである。


結婚は僕が14になる頃、母親はひっそりと籍を入れた。

3つの姓を提示されたのを今でも覚えている。

生まれの父親の姓か

母親の旧姓か

新しいパッパの姓を名乗るか

の3択である。


多感な年頃である。まして思春期だった。

苗字が変わればいじめられるかもしれない。

僕が好きだった女の子はそれをどう思うだろう。

ホームルームの時間で大きな声で呼ばれるのかな。出席番号だって変わるかもしれない。


うだつの上がらないことなかれ主義。

ことなかれな生まれの父の姓を僕は今だに名乗っている。

まあノリだった。恥ずかしかったし。

今思うと、その選択を与えた母もまた強しだ。


そんな時期から高校生にかけて、僕は「神童」を辞め始める。

堕落したし、落ちぶれたのだ。

おマセさんぶって、大人の顔色を伺うのに疲れてしまった。

限りなく良く言えば”ポイント”稼ぎを辞めたのである。


ヤンキー武勇伝など全くない陰キャだが、喧嘩騒動や停学処分。家出の数は5回以降数えていない。

学校もほとんどサボっていた。


学校にはいたくない。先生とかいうツラだけ被った五月蝿い大人たちがいるから。

家にもいたくない。居場所なんてないから。

誰かや世界に罪ばかりを擦り付けた。


天涯孤独ぶって、学校をサボり、筑後川が流れる川縁で水切りをした。

イヤホンから流れるレッド・ホット・チリ・ペッパーズだけが僕の味方だった。

まさに、ハンコーキ。

マンチェスターユナイテッド時のC・ロナウドほどキレッキレの10代である。


そういや最近家に帰っても、ババアを見ないな。

うるせー奴がいなくてせいせいするわ。エロサイトでも見っか。


「ガチャガチャ...バタン!」

家のドアを開ける音がした。

きっとオヤジだ。


ちっ、もうジジイが帰宅かよ。今日ははえーな。


「〇〇、おまえまた停学になったらしいな」

 


(珍しく喋りかけてきやがって...)

「え?だからなに?」

 

 

 

 

「パンッッッ!!」

 

 

 

 

マーチング部の朝練で聞いたことのある、太鼓のような乾いた音がした。

 


義父に初めて殴られたのはそれが最初で最後だった。


音と反比例して、痛みはじんじんと僕の頬を脈打った。

 

 

「言うか迷ってたが言う。お母さんは妊娠している。入院もした。年齢も年齢だ。お母さんに心配をかけるな」

 

 


「.....!!?」

 

 


産まれてくる我が子が可愛いからだけじゃない。

純粋に母親を愛してるからだけでもない。

こんな状況のバラバラ寸前の「家族」を救おうとする「親父」の顔がそこにあった。

というか伝わりすぎるくらい痛かった。

厳密には痛かったのは顔面だけではなかったからだ。


その晩、オヤジと食ったレトルトの牛丼はどんな味がしただろう。

未だに思い出せないままでいる。


何ヶ月後かにベイビーが誕生した。

世にも珍しい高齢出産での双子の自然分娩である。

母の出産シーンには多くの産婦人科医が見学に訪れたらしい。


一気に2人の「お兄ちゃん」となった僕はというと、、、


手遅れかもしれないが、高校生を謳歌せんが為に奔走した。

それなりに勉強し、それなりに補習をして。

それなりに部活を頑張り、それなりにバンドに青春を捧げた。


張り切りすぎて、部活中に鎖骨を折った。

半グレしてたとはいえ、青春真っ只中の名誉の負傷である。

だから実は母が出産する頃、僕は同じ病院でベッドに横たわっていた。全治3ヶ月。

オヤジは見舞いがラクだと言っていたが、いつも母親の病室からの僕で、僕の方から先に見舞いをされたことがない。

今度帰省した際は詰問から始めたいと思う。


病室のテレビから流れるミスターチルドレンの「HERO」が家族愛を謳っていてこそばゆく、鬱陶しかった。


生まれた我がシスターズについてはこれまた長くなる故、機会があれば書きたいと思う。

彼女らとの思い出もこれまた濃密だ。

 

 

3年程前に帰省した際、母親から面白い話を聞き、僕は現地へ駆けつけた。


「パパね、最近秘密基地があるとよ。私と喧嘩したらすぐ出て行ってそこにおっとよ。バカんごとしとっとさ」


入るとまさに秘密基地。

ブレーカーを上げた瞬間に音楽がかかった。

T-BOLANZARD、くじら19号や空も飛べるはず。とんでもなく80s。


陳列棚にはどこに隠してたのか分からない古めかしいラジコンや玩具の数々。

怪しい自己啓発本や変な科学雑誌


しかし性格故か以前訪れた時よりも、綺麗に隅々まで整頓され、水道は井戸からひけるようにし、いつ蛇が出てくるか分からない鬱蒼と茂った竹林や雑草はスッキリと刈られていた。

 


そう、僕はここに来たことがある。

 


というよりそこは、僕が生まれ育った家だった。

 


知らない家にズケズケと入った男は、その乱雑な広い土地や、長らく空き家で埃やイタチの糞まみれだったその家を、1人で綺麗にしていた。

すぐにでも家族が住めそうなくらいのものにまで。


「おれ、お前の先祖に呪われてるかもしれんわ」


仕事から帰り、芋焼酎を飲みながら

顔が紅潮し始めたオヤジは言った。


「秘密基地なんやろ?打ちっぱなしゴルフのネットまでつけとーやん」


「おまえ、大変やったとぞ?砂利とかも敷くの。業者に頼んだら300万やて、自分でやるわってなってな」


「そうか笑」

 

 

あの家は僕の名義になっている。

 

 

なにかを悟った。

 


「綺麗にしとくから、あとはよろしくね」と言われた気がしたのだ。

 


その声は死んだじいちゃんの声なのか、眼前で酔っ払ってる中年の声なのか僕には分からなかった。


オンボロで、市に公民館として寄付しようにも断られたほど便も悪い。

外に立てば田舎育ちの屈強な蚊に、ガトリング砲のように狙われること請け合いだ。


およそ10年振りにあの家を見た時、

僕はどんな顔をしていたのだろう。

 

あの家でちゃんと死ぬのが、僕の夢である。


もうひとつ約束できるのは、オヤジが死んだら、あのラジコンやプラモデルを寂しくないようにそっと棺に入れてやろう。


そしてあの物持ちの良いオヤジのことだ。

ひとつなぎのアダルトビデオは僕がポーネグリフにして歴史の闇に葬り去ってやる。

 

約束するよ。

 

それが受け継がれるイシってやつだろ?

 

デコイNo.22

アホウドリ」を知っているだろうか。


ワタリドリの一種でなんとも可愛らしい容姿をしている。

19世紀頃からその羽毛欲しさに乱獲が起こり、今では日本の伊豆諸島に数百羽ほどしか生息していない絶滅危惧種のひとつだ。

生息と言ったが、この場合は「コロニー」いわば宿木、お気に入りのホテルである。

彼らはシーズン毎に島を転々とする遊牧民のような生活様式をしている。


夏はベーリング海やアラスカ湾、冬が近づくと南下し、日本近海で繁殖の時期を迎える。

文化祭や体育祭マジックによる高校生のマッチング量産体制といったところか。


カップリングのコツは「ダンス」

全身を使ってオスがメスの前で踊ってみせるのだ。その求愛ダンスに応じてもらえば晴れて夫婦。

アホウドリは一夫一妻制でつがいとなった夫婦は生涯を共に過ごすそうだ。


生態も非常に面白い。

名が体を表したのか、体が名を表したのか、その名の通りにアホなのである。

日本国内だけでも630万羽捕獲されたという記録さえ残っている。

何故そんなに捕まったのか、ふつう逃げるのに。飛べるのに。


それは警戒心ユルユルだったからに他ならない。

仲間が1m先で殺されても警戒することなくエサを食べ、逃げようにも飛ぶのでさえ坂上からかなり助走をつけて羽をばたつかせないと飛翔できないポンコツぷり。しかもノロいときてる。

ATフィールドノー展開。ストゥーピド、フール、イディオット、なによりドアホウなのである。


さすがのアホウドリも半世紀ほどかけて気づいたのだろう。あそこ行ったら殺されるからもう行かんとこって。


そんな中1990年代からアホウドリの増殖事業が始まった。いわば計画誘致。

もうとりませんやん、戻ってきてくださいよといわんばかりの人間が考えた内容はこうだ。

精巧なアホウドリの模型を島に92体置き、スピーカーからアホウドリの鳴き声を流す。

仲間がたくさんいる!と思ったアホウドリが島に戻ってきてくれるだろうという素人目で見ても、なんともマヌケでお粗末な計画であった。

模型は「デコイ」と名付けられ番号が割り振られた。そしてそれぞれ島に配置されたのである。


しかしなんとこのマヌケな計画、

 


大成功したのである。

 


90年代末になると、かなりの数のアホウドリで島は埋め尽くされ、以前のような景色を島に取り戻した。

いやーよかったよかった。という話ではない。


奇妙なある1羽のアホウドリが確認された。


周りでカップルが爆誕し続けるなか、あるオスのアホウドリが模型「デコイ」に求愛のダンスを踊りだしたのである。


デコイに割り振られたナンバーは「22」

その様子は次の日にも確認された。

その次の日も。その次も。

雨の日も、風の強い日も..。


彼は同じ模型にダンスを踊り続けたのである。

恋をしたのだ。

「デコイNo.22」に。


彼はその冬、そのデコイの前で踊り続けた。

朝から晩まで。しかし模型は模型。

反応なんて返ってくるはずもなく、彼は失意(?)の中、島を後にすることとなった。

ぼっち確定演出である。


時は流れ翌年。

通年通り、繁殖の為にアホウドリたちが島を訪れる。

なんとまたあるオスのアホウドリがそのデコイNo.22の前で求愛ダンスを披露した。


それは昨年、見向きもされず、

島を後にしたあのアホウドリと一緒の個体であった。


彼は「デコちゃん」(安直)と名付けられ、その恋の顛末を見守られる形となった。

エンドは初めからバッドにも関わらず、彼は来る日も来る日も踊り続けた。

 


その期間、なんと10年である。

 


時は流れ2006年「当初の目的は達成された」として、島からデコイを撤去されることが決定した。

冬にはまたデコちゃんが来る。

デコイNo.22だけでも島に残してやれないかという声と、それではデコちゃんは一生報われなくなる、全部撤去してあげるほうが彼の為だ。という意見で議論が巻き起こった。

 


事の顛末は、、、

 


自分の目で確認してください。笑

 

「デコイNo.22」

結果は問題じゃないからだ。

 


僕はこのドキュメンタリーを、当時16歳ほどだったかに鑑賞し号泣した。

まるでひとつのロックバラードを聴いた後のような焦燥と感慨に心入ったのである。

 


なれるだろうか。あんなアホウドリに。

 


10年見向きもされない相手に、

毎日好きだと告白し、一生童貞でぼっちのまま踊り続けることが。


自分を貫き続けること。

諦めないこと。

なにより彼のデコイNo.22への熱量。

命そのもの。


彼は愚直だが、愚かだと思う人などどこにいる。

胸を打つ彼の存在は、異種族である僕の中でいつも燦然と輝いている。

 


「あいつはアホだ」「どうせ報われない」

そんなこと考えている間にダンスさえ踊れない奴にはなるな。


そんなことを教えてくれる気さえするのだ。

 

 

そこは東京都、伊豆諸島のとある島。

命そのものの熱量で灯した

とあるアホウドリ

 

始まらない恋と終わらない愛。

 

武士道とは

Jリーグが再開する。

サッカーファンとしては嬉しい限りであり、

ことさら地元である佐賀県にある、メガクラブ(笑)のサガン鳥栖熱が加速しそうだ。


大きい舞台や社会、都会に出るとよく佐賀県イジりをされるものだ。

これは佐賀県に限らず田舎出身の方ならあるあるである。


「えーそんなとこになにがあるのー?」とか「場所わからーん笑」というシティーマウントに屈し、返しも説明からも逃げ、「ははは、地元?福岡福岡」と近場の大都市を挙げていた20代にさよなら。


30代、より一層、アイデンティティやルーツ、育んだ自然や水に感謝する時分である。


個人的には「なにもない」からこそ、なにかを生みたくなるのである。

いつかは多くの人に認知され、自分の意見を承認されたい、能力を発揮したい、自分の存在を知らしめたい。

なんてことを若い時に考えたものである。

間違ってはいないが、なんとも若い。出すのがヘタ。


佐賀県は、江戸時代頃、

通称 葉隠れの里とも呼ばれていた。

そうあの「葉隠れの術」の葉隠れ。にんじゃりばんばん木の葉の里である。

少年ジャンプを愛する少年(中年)たちは知っているNARUTO岸本斉史先生の地元も近い。

以前住んでいた家の近く(福岡県ではあるが)には「一楽」というラーメン屋もあったくらいだ(ガチのモデルです)


こうなると僕にも螺旋丸が使えるのでは?と思えるくらいだが、残念だがチャクラ不足もいいとこ。


そんな下忍の実家の近くにある金立公園にはこんな石碑がある。


「武士道とは死ぬことと見つけたり


過激な言葉だが、この言葉、切腹したがりとか死ねばいいとか投げやりな言葉じゃないのがミソ。

生か死の選択をしなければならない時は死を選ばなければならない。

それ自体に意味はない。


当てが外れたら犬死にだと言うのは都会的な武士の思想である。


もし当てが外れて、生き永らえてしまえばそれは恥になる。

 

当てが外れて死んだら、犬死にかもしれないし、気違いのようだが、それは恥にはならない。


つまり。


毎朝毎夕死ぬことを決心して常に死んだ身になれば、武士道と自分は一体となり一生落ち度がなく、職務をまっとうすることができる。

という意味だ。


「死」があるゆえに「どう生きるか」を捉えるSAGAにしては案外含蓄のある言葉である。


だから思う。

派手に転んで、恥も外聞も承知の上で

それでも死ぬまでトライアンドエラー


地域性や血は

意識せずとも確実にみなさんの中に息づくものと思います。

地元の言葉を掘り下げてみると、自分の縦の糸は繋がって、どんな人間か自己分析も捗ります。


だから毎日精一杯、今日も生きていきますね。